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私が私にリラックスするために。 [ヨーガについての知識]

心がほんわかリッラックスするのは、どんな時ですか?

美しいものを見たとき。自然や芸術に触れたとき。

素敵な笑顔に出会ったとき。ふと人の優しさを感じたとき。

その時、身の回りの気になる問題や悩み事なんて、すっかり忘れています。




あの状況がもっと変わってくれたらいいのに…

あの時、あの人がこうしてくれていたら…

そんな考えが自動的にまるで無秩序に沸き起こってくるのが「考え」というもの。(ほんとは秩序があるんですが)

気持ちをモヤモヤさせるこれらの考えを、いざ手放そうとしても上手くいかないものです。

でもこの世界には、そんな考えを忘れさせてくれる、様々なアトラクションが用意されています。

SNSの承認とか、仕事の成功やポジティブな考え。

若さや美しさかもしれないし、お酒や美味しい食べ物だったしります。

それが悪いのではなく、根本的な解決にはなりません。



ヨーガや瞑想で、ちょっと心がすっきりするのは、一時的に考えを手放せるからです。

その時、私は「ベーシックパーソン」にとどまっています。

その時わたしは、親でも子供でもないし、会社員でもないし…役割から自由な人。

その時わたしは、成功した人、失敗した人、楽しい人、残念な人といった自分の観念から自由な人。

その時わたしは、ここが痛い、具合が悪い、太ってる、瘦せている…体の観念からも自由な人。

だから、そのひと時だけリラックスするのです。でも、それも一つの状況にすぎませんから

しばらくすると、おなじみの考えが現れて、いつもの自分に戻ってしまいます。



ベーシックパーソンとは何なのか。言葉でそれを理解する必要があります。

知らないと、ヨーガや瞑想の虜になって、ヨーガ業界の商品を消費し続ける人になってしまいます。

それを学んで、自分自身の知識となったとき、自動的にわたしはベーシックパーソンです。

ヨガの知識は、自分から離れたものでありませんから、知識が自分自身となるのです。



ですから、この知識は自分を分析することではありません。

自分の性格や体質を分析する類の商品や知識も、この世界にはあふれていますね。

私はこんな性格、体質ですとどんなに分析しても、それらもいつも移り変わるものです。

「私とはこんな人」と分析している、その考えを明かしているのは誰ですか?



考えの後ろにいて、それを明かしている「わたし」とは何かを学びます。

世界にいる人ではなく、いまいるこの世界を明かしているのが私なのでです。

私が私にリラックスするために、私を知ること。

知れば知るほど、考えの自分から自由になってきます。

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家庭でお肉を食べなくなりました。 [ヨーガについての知識]

お肉を食べなくなって1年以上となりました。
お肉を食べない理由を、少し書いてみようと思いました。

ベジになるというのは、人によって様々な理由があります。
健康のため、環境への影響だったり、ヴィーガンという言葉も広まっていますね。

先日、若い方の「やっぱりヴィーガンをやめました」なんて動画も見かけました(笑)
ある程度の知識と理解がないと、ファッション感覚では続かないのだと思います。

そもそも日本では菜食の環境が整ってないので、気軽にというわけにはいきませんからね。
家族に食事を作る主婦にとっても、これはなかなか難しい問題なのです。



ヴィーガンという生き方は、動物性のものを食べない、動物由来のものを買わないという生き方です。
お肉を食べないことが地球環境のために非常に良い影響があることも、最近ちまたで知られています。

これらも理由の一つですが、私にとって一番の理由は「自分に嘘をつきたくない」からです。動物が好きなのに、動物を食べるということに、多少の抵抗感を持ちつつ長い間違和感を無視して食べてきました。

ドキュメンタリー映画が好きで、食肉ビジネスの現状を暴いたドキュメンタリーも非常に興味がありました。実際に家畜を処理する映像は、直視することができないものです。悲しいです。

動物の命に対しての思いと、さらにはその直視できないようなことをお仕事としている人間がいるという事実も悲しいです。

自分が決してやりたくない事を、見知らぬ人にやらせて、涼しい顔でパック詰めされたお肉を買うことも違和感がありました。自分の中に、なにか摩擦が起こるのです。

私たちはサーマンニャダルマといって、調和(ダルマ)と不調和(アダルマ)の普遍のセンスをもっています。普遍のセンス。国や人種を超えて誰にでもあるものです。

ですから共感する感覚があるのです。自分が嫌なこと痛むことは、他の人にもさせたくないのです。
それに気づいている自分を無視したり、噓をつきたくないのです。

自分に嘘をついたら、心がザワザワすることは子供でも知っています。自分が自分に落ち着けないのです。みんな自分に落ち着きたいです。だれでも自分と世界との調和を保ち心地よくいたいのです。

もちろん、人は気づかない所で不用意に周りを傷つけてしまうことはあるので、全ては避けられない。でもまずは自分自身の中に起こる摩擦に気づいたら、ダルマを選んだ行いをしていきたいのです。

犬や猫が愛おしいのと同じように、豚や牛も個性ある命です。私たちは他に食べるものがたくさんあるのですから、選べるなら選んで食べるのが心地良いのです。ただそれだけのことです。

ダルマを丁寧に選びたい。ヨーガを学ぶと、その当たり前の価値を大切にす「価値の価値」に気づきます。人生の成功とは、自分自身の調和があってこそ存在するものです。

そして実際に、キッチンや冷蔵庫に動物の死体がないというのは大変心地よいものなのです。



昨年、3週間インドで過ごした時は、もちろんベジのお食事でした。その時、このままベジの食事を続けたいと、インドから家族に思わず電話でお願いしてみたら、なんとOKをもらえて今に至りました。

主人や娘(大学生)は、外で自由にお肉を食べていますが、私が作る毎日のお料理にはお肉を使いません。家族と外食の時、ベジ食がないとき私はお魚を選びます。できるだけ家族とも無駄な摩擦がないように工夫しています。

日常で革やウールの製品もまだ持っていますし、卵製品も食べています。いきなりヴィーガンになるのは難しいので、ゆっくりです。ホントは白米も玄米に変えたいのですが、これは家族の同意が難しそう。

数年前にもベジにしようと試みた時は、家族の反対があり断念しました。主人は未だに唐揚げLoveです(笑) そんな中でも、ゆっくりと今の状況に至ったこと、ここまで運ばれたことを心から感謝しています。



☆食の問題を描いた「世界を変えたくて僕を変えた」という素敵な漫画本があります。漫画以外にもベジについての深いお話や情報、世界のベジ偉人の言葉なども紹介されていてとても興味深い内容なのですが、Amazonでは買えないようです。読んでみたい方がいらっしゃいましたら、お貸しできますので遠慮なくご連絡くださいませ~。

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こちらはインド滞在中、アシュラムのご近所農家さん宅でいただいたお食事です。
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思いやり深く演じてみる [ヨーガについての知識]

「まるで思いやり深く演じなさい、歯ぎしりしてでも!(笑)」

私の講座で見た番組TEDでの一コマ、スワミジのお言葉です。
それは「思いやり」についてのお話でした…

私たちには共感する力が与えられているので、相手の気持ちに寄り添うことができます。
でもそれは一時の「思いやり」なのですよ…と。

思いやりをもって人や社会に貢献できるためには、まずは自分が安全で充分なのだ、と感じていなければできません。

そして、さらに自分自身の中に、「ある偉大さの意味」を見つけなければなりません。

自分がお金持ちだとか、権力があるとか、社会に示せる地位ではなくて、自分自身に偉大さの意味、つまり「全体の意味」を見つけなければなりません。



私たちはどんなに悲痛な人生を生きている人でも、悲しみと悲しみの間にとても幸せな瞬間というのがあります。

その幸せというのが、たとえつまらないジョークで笑っている時だとしても、その瞬間は自分自身を受け入れています。同時に自分自身のいる状況も受け入れています。

それは、全てが完全に受け入れられているということです。主体である私、そして客体である様々なものが、一つの本質の中に溶けこんでしまう瞬間があるのです。

どんなに借金があったとしても、解雇や不幸な出来事があっても、その瞬間は幸せでいられます。
それこそが、私たちが望んでいる幸せであり、「全体」の意味なのです。

その幸せの瞬間が、「全体」のリアリティを明かしています。そこに気づくとき、あなたは新しい人生をはじめます。全てが意味深いことになります。もはや自分自身をとがめる理由がありません。



私たちには、限りがあります。体も、能力も、知識も、健康だって。だから楽しい気分も限られてしまいます。思いやりも、全てが限られてゆくでしょう。

思いやりを要求することはできません。あなたが限りの無い人にならない限り。そして誰も限りの無い人にはなれません。あなた自身が限りの無い人か、そうでないかの二つに一つです。

そしてあなたが限りの無いものではないと言える理由も決して見つけられません。あなたが沢山の限界を持っているにも関わらず、あなたが全体なのです。全体の意味そのものがあなたなのです。

あなたが世界と関わるとき、その全体が力強くあらわれる時、それを「愛」というのです。愛は動詞ではありません。名詞です。

そして、それ自身が「思いやり」になります。あなた自身がその感情を呼び起こすなら、それがさらに「与える」や「分かち合う」に形を変えてゆきます。



あなたはそもそも「思いやり」を持っているのです。自分の中にそれを発見するために、それを自分自身から汲み出すために、まずあなたが思いやり深く演じなければなりません。

同情深く演じるのです。どうやって? そこが、あなたが「フリ」をしなければならない所です。
思いやり深く演じなさい!歯ぎしりしてでも(笑) 「フリをしてそれを成す」のです

はじめは相対的な思いやりでも、もしあなたが正しい教えを得るなら、ゆっくりとその思いやりというのが、あなた自身の本質が力強く現れたものだと発見するでしょう。

それが、唯一という意味、全体という意味であり、それがあなたなのです。



以上が、日曜の夜に開催したZOOM講座で、みんなで見たスワミジの講話を、私が小さく簡単にまとめたモノです。上手く伝わるかしら…(汗)

講座ではこれを題材に、私たちに備わっている普遍のダルマ「サーマンニャダルマ」の意味や、「知識」とは何かを深めました。

知識の認識には二つのレベルがあります。対象物としての知識と、「直の知識」です。この「直の知識」が理解できるとき、「全体」の意味がゆっくりと見えてきます。

ゆっくりとゆっくりと…それを学ぶのは、自分自身が人生で背負った荷物を、1つずつ手放して身軽になっていくことだよと言われています。

次回からもスワミ ダヤーナンダジのお話を、私たちの先生チェータナーナンダジが日本語に訳してくださったテキストを使ってお伝えしていきますね。次回は10/11(日)です(^^)/

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「怒り」から学んでみる [ヨーガについての知識]

私に怒りが起こるとき、それは気づきのチャンスです。

怒りや感情が沸き起こるのはなぜでしょうか?
それは過去に、何かがあったからです。

記憶に基づいて、怒りや感情が沸き起こります。
なにか自分が馬鹿にされたような、自分が損なわれたような感じ。

あるいは、悲しみや、反発する感情、自分を守るために相手を非難したり…。
私たちの考えや感情気分は、日々大忙しです(笑)

ただ、知らないのです。
私にはたくさんの過去の経験と記憶があり、様々な状況を過ごしてきたので、いま怒りが沸き起こりました。ただそれだけのことです。

そしてもう一つの事実は、いま私に怒りを起こさせた相手にも、たくさんの過去の経験と記憶があり、様々な状況を過ごしてきたので、いまそんな風に振舞うのです。ただそれだけ。

自分の感情を客観的に見るためには、ただこの真実から見てみます。
そして自分自身に、その感情から離れる「すき間」を作ります。

ヨーガではこれを「シャマ-sama-」と言います。

こう考えようとか、考えを変えようとしているわけではありません。
怒りを止めるわけでもないし、哲学でもありません。

ただ、自分が見えていなかった真実に目を向けるだけです。

シャマができれば、自分をネタにできます。
「あなたがそんな態度を見せたら、わたし怒っちゃうのよね!」と笑えます。

これがヨーガの始まりです。考えを変えるのではなく、真実をみる。
私たちは見えているようで見えていないことが沢山あります。

ヨーガが教えるリアリティは、ただただビッグな視点です。
宇宙規模なのです。ですから世界観とか宇宙観とか言います。

その真実をリアルに見ていくことで、自分の客観性シャマがどんどん大きくなります。
目の前で大問題だったことが、真実から見ると、ただこの世界で起こっている一つの出来事です。

問題から逃げるわけではありません。客観的視点によって、さらに落ち着いて行動できます。
自分が自分にリラックスしながら、この世界の出来事を楽しめるのです。

「願望を手放せ」なんて言いません。真実の視点から見れば、願望は与えられた恩恵なのです。
「考えを止めろ」なんて言いません。考えを止めたら生活できないじゃないですか。

ヨガスートラはヨガの聖典ではありません。「心の作用を止めること」は間違いです。
考えを止めるのではなく、「間違った見方をしているその視点を正しくしていくこと」なのです。

ヨーガでシャマが大きくなると、見えてくることがあります。

世界は何か影響しあって、目の前に様々な出来事が起こっていること。
そして自分は何か大きなモノに支えられて運ばれていることが見えてきます。

ヨーガの知識を通して、経験を通して、自分自身に真実をみます。
「私こそがリラックスの意味なのね」と。

いらゆる「ワンネス」は、やって来ては去っていく体験ではありません。
あるがままの世界をあるがままに超客観的に超知的に見るとき、私は私によって理解されます。

それをほんの一時、体験するのが「ヨガアーナンダ」シャバーサナのリラックスです。
自分を完全に受け入れられるのです。その可能性はすでに私に「ある」のです。

だから私たちは、それを求めます。みんな自分にリラックスしたいのです。

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こちらのインドのおじさんは怒ってません、ガン見です(笑)






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満足のために、頑張らない。 [ヨーガについての知識]

私たちは満足がないから、頑張ります。満足が足りないから、足りよう足りようとします。
それが仕事の成功だったり、結婚して幸せな家庭を持つことだったり、ハワイに行くことだったり、人それぞれです。

自分が満足できないから、他人の力を借りて満足しようともします。例えばFacebookなどで他人からたくさん承認されることで満足をえたくなるのですね。自分に満足がないので他人の力を借りるわけです。



満足には2種類あるとヨガの知識は教えます。
「ある程度の満足」と「絶対の満足」です。

仕事や何かの成功や他人からの承認を得ることの満足は、ある程度の満足です。
仕事の成功で満足を得ても家庭で不満だらけだったり、この分野ではブイブイ言わせて満足があっても他の分野やでは自身がなくて満足が得られなかったり。自分にも満足であり、周りの状況や世界にも全てに満足というのは、なかなかうまく叶いません。なので「ある程度の満足」なのです。

しかも自分の満足のために日々努力しても、思い通りの結果が返ってくるわけではありません。私は行い手ではあるけれども、行いの結果は自分の手の内にはないのです。なのにその「ある程度の満足」を成功の意味だと思って、あの手この手で計画を練って努力をします。あるいは思い通りの結果が得られないなら、最初から願望を持たなければ良いという勘違いを持ってしまうことも。

日々どんなに努力しても叶うかどうかわからない相対的なもので、自分の成功、つまり満足を得ようというのは難しいことなのです。でもほとんどの人は、それしか満足の方法がわからないので、その道を突き進んでいます。




「絶対の満足」というのは、そもそも自分は100%満足な存在だし、周りの人や世界に対しても100%満足で調和があるということです。そのためには、今までとは違った見方、世界観で自分を見直す必要があります。

私たちはすでにウン十年と生きて、自分とはこうなのだ!という見方、生き方、ある意味哲学を持って生きてるのです。簡単に見方を変えられるものではありません。

でも「絶対の満足」を得たいと思って人は探求し始めます。そのきっかけは、仕事である程度の成功を得た後のむなしさだったり、突然の不幸や事故などで究極の状況となったり、あるいは大変な病気で人生を見直す時だったり、アーサナヨガの後の心地よさにハマったり…人には様々な運ばれ方があります。

私は自分自身に満足で、周りの人にも環境にも状況にも満足であるためには、正しく「あるがままをあるがままに見る」ということを学びます。私たちはそれを知らないのです。それは今までの間違った見方を手放し、ただあるがままの真実を知る、見る、ということです。



それは努力で自分の考えを変えることでもなく、他人や状況やこの世界を変えることでもないのです。
ですから仕事を変えたり、願望を手放したり、パートナーを手放したり(笑)する必要もないのです。

常に移り変わる「ある程度の満足」のために、歯を食いしばって他人と駆け引きしたり、競争をする、そんな努力や頑張りは必要ないのです。「絶対の満足」を学ぶ時間は、知ることで自分にリラックスが増えるので、とても楽な生き方になります。コツコツ勉強時間を重ねる、その努力は必要ですけれども(笑)この学びは駆け引きや競争がないので楽です。なにより自分が自分でいられるのです。


自分の考えで主観的にみている世界を、あるがままにちょっと客観的な「見方」をもってみませんか?ヨガの学びは、最初は自分の固定観念やクセに気づいたり、とても小さな気づきです。やがてそれが時間をかけながら、偉大な視点、世界観となって、私たちに絶対の満足をもたらせてくれるのです。
それがシャンティの本当の意味です。

8月お盆過ぎから、ZOOMで講座を開催しますね。
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成功の意味とは [ヨーガについての知識]

アーサナヨガの最後にシャバーサナでじっと横になる。

体と呼吸を完全に手放して、時間の感覚も忘れて、あるがままの自分に満足するひととき…とても心地よくて、自分が満たされた気分になります。

その心地よさは人を魅了して、ヨガが人生でとても大切なものになり、ヨガのインストラクターをお仕事にしたいという人もたくさんいます。

ヨガクラスは生徒さんにそんな時間を提供できる素晴らしいものですが、実際はヨガのお仕事で苦しんでいるインストラクターも多いのです。

 

心地よいシャバーサナは、自分の内側の調和があります。何かすごい物資を手に入れたわけでもないのに、自分が自分に満たされている、でもそれは一つの過ぎ去る体験です。

私たちはもっと日常の生活で満たされたいのです。人生で成功したいのです。自然にいろんな願望がわいてきます。それを叶えたいと思います。

この世界ではほかの人が自分よりも成功しているように見えて、自分もそれを手に入れようと努力します。物質的に、経済的に豊かな人、ポジティブな考えを持つ人、ある分野で少し目立つ憧れの人。

その願望を叶えるとある程度は満たされるかもしれません。今より少しはいいかもしれませんが、逆に得たものを失う不安や緊張が増えるかもしれないし、さらに高い次なる目標や願望が生まれてくるかもしれません。

せっかく手に入れても、友人を傷つけたり、自然を傷つけたり、健康や家族を失ったり…そんな状況を生み出すかもしれません。さらには、何かを失ってから、願望の矛先が変わるかもしれません。

願望が叶うかどうかは、努力の量にかかわらず自分の手の内にはありません。期待どおりになるか、それ以上の良い結果となるか、叶わないか、考えもしない結果となるか、このどれかです。

時には期待通りにならない時に、自分が自分にがっかりすることも多いのです。成功して自分が満足したいのに、逆に自分を残念な人に思えてしまうかもしれません。

でも人はそんな自分を人に見せたくないのです。ヨガのインストラクターならなおさらです。自分の満足、自己尊厳を保つために、笑顔で発信し努力します。成功とは他者からの承認や、社会の立場からの承認によって満たされたいのです。

   

だからと言って、夢や願望を手放せとか、執着するな、ポジティブに考えろ、ということがヨーガの教えではありません。

そもそも自分を満足させるために何か成功を求めることは、人間の勘違いなのです。どうなるのか先が見えないことで、満足したり、安心したり、自己尊厳を満たすのは無理なのです。

自分が何も手に入れずに、いま、このままで「満足」があるということ。シャバーサナの体験のように、自分が自分自身に満足しているとき、満足とあるがままの自分とが同じ意味になっています。

自分が完全に満足しているとき、この世界と調和しているということです。それは、自分の願望にむけての努力の量とは関係なく、今もすでにあるのです。その理解こそが本当の自己尊厳となります。



その真実を理解するためには、ある種の世界観の理解が必要です。その理解がヨーガの学びです。

理解によって、たとえ成功の結果を手に入れられなくてもある種の満足があります。願望や執着は手放さなくても、ヨーガの学びと理解によって自然と手放されるときが来るかもしれません。

日常生活でその理解を深めていくのがカルマヨーガの生き方。生き方がカルマヨーガになるとき、成功の意味が変わってきます。ヨーガの生き方で、自分自身が理解によって成熟していくことが、「人生の成功」へと変化していくのです。

もちろん世捨て人になる必要はありません。カルマヨーガに仕事も家庭も必要です。環境や状況は何も変える必要はなく、知識の理解によって、自分自身が満足の意味となってきます。

これ以上の完全な満足が他にあるでしょうか?
自分が完全に満足している時、この世界との調和があります。この世界に問題はないのです。

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ドワラカにて。クリシュナテンプルの近くにある水辺。

※このコラムは私が長い時間学んできたヨーガの知識を、自分の言葉でまとめる練習をしています~hiromi

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ポットは土だけれど… [ヨーガについての知識]

「ポットは土だけど、土はポットじゃない。」なんのこっちゃ…

私がこの見方を初めて聞いたのは、スワミジからでした。忘れもしない2012年のGW。
いやもちろん、最初は全く意味がわからず「なんのこっちゃ」と(笑)

ポットというのは素焼きの小さな壺のことなんですが、レンガのように土を成型して焼かれたものです。まさに100%土でできた素焼きのポット。

それは100%土なので、粉々に壊せばただの土になります。それなら、ポットって言っていましたが本当にそこにあるのは、ポットじゃなくて単なる土じゃないですか…?

ポットは存在していたのですか? ええ、確かにありました。

では「ポットがある」とき、どうしてそれを「土がある」って言わないのでしょうか。

「ポットらしい形や性質」など、何か”質”や”…らしさ”を装ったとき、その本質は見えなくなってしまうからです。

たとえば、私たちは「花がある」といいますが、花って花びらが集まったものです。

そこにあるのは単なる花びらの集まりですが、「花らしさ」を装っているので、私たちは「花がある」と言います。「花びらがある」とは言わないのです。

「らしさ」はその本質を隠してしまいます。



この見方が「いまこの瞬間の私に起こっている!」なんて全く意味がわかりませんでした。

私たちの本質は「体」「感情」「役割」「気分」…いろいろな「らしさ」を伴っているので、まるで隠れてしまっていますが、「いまここにある!」それが「あたな」なのですよ。

ヨガの先生ならインストラクター養成中に「コーシャ」を学びますね。パンチャコーシャ=5つの鞘。この意味を深めるのにも、とても大事な見方なのです。

ヴェーダンタを学びに来たヨガの先生たちは、みなさん言います。今まで「コーシャ」って何のことかさっぱり意味がわからかったです…ってね。このあたりがヨガの学びの入り口になります。

↓こちらヴェーダンタで使うポットです。
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いま、まさに、「私にここで起こっている!」それはどんなことなのか。

2月の札幌ヴェーダンタ勉強会では、このあたりの話をしながら、皆さんとシェアできる時間になれば良いな…と思います。

パラヴィデヤケンドラム グループスタディでは朝6時から2月14日15日に担当させていただきます。

こちらはタットヴァボーダの15番目、16番目あたりの詩を使いますが、まだタットヴァボーダを勉強してない方も気軽にご参加ください。
https://vedanta.exblog.jp/27301700/



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願望は手放さないで! [ヨーガについての知識]

何かを手に入れたり、自分の人生で自己実現したり、そんな願望をもったらいけないの?と勘違いをする人がいます。

ヨガの哲学なんかに触れると、そんな風に聞こえるのかもしれません。とんでもない!人間は願望がないと生きれらないのです。

想像してみてください。もし朝起きてなんの願望も予定もなかったら…私ならお腹がすくまでずーっとお布団でゴロゴロしてます(笑)

今日いちにち良い仕事をしよう、楽しい日にしよう、そんな願望があるから、朝起きて歯を磨き、身支度を整えるのです。お金がないと生きていけないから、仕事に行って稼ぐのです。

この世界から人々の願望がなくなったら…社会が回りません。経済活動もストップです。

大事なことは、仕事やお金や名声、資格や技術、そして健康を手に入れようと、そんな願望目指して頑張っても、それらが自分を幸せにしてくれるものではないと気づくことです。

いやもちろん!それらがあっても幸せになれるので、手放す必要はないのですよ(笑)

ただ、願望をかなえることだけが、自分自身を幸せにしてくれるわけではないのです。

それが何かが「あって」幸せというのなら、逆の見方をすると「自分は幸せな人ではない」という事ですもの。幸せじゃない私に何かを足して幸せというのでは、幸せは決してかないません。だってその何かは、いつかあなたから離れていきますから。

だから、その願望が本当に必要なことなのか、見極めることも大切なことですね。

例えばいったん名声を手に入れても、やがて時代とともにブームが去ることがあるのです。「名声があって幸せ」なのであれば、また名声を求めて、あれやこれやと駆け引きの生き方が始まるのです。名声がなくても幸せなのであれば、それを失っても幸せのままです。

お金も、仕事も、健康も、すべてがそうです。自分の外側はいつも変化します。それを手に入れることに幸せの意味をおくと、様々な願望を求めて一生頑張らないといけないのです。


この世界を二つに分けると、まず「自分」があります。そして「自分以外のもの」の二つ。
自分以外のもの、名声やお金や健康で幸せが得られないと気づいたなら、探求するのはもう一つのほう「自分」です。

だからと言って、「自分を変えよう」とか「こう考えよう」とか哲学や自己啓発の学びでは何の解決にもなりません。これだって同じ、「自分を変えて」幸せなのであれば、そもそも自分は幸せじゃないという事になります。

幸せじゃない自分に、あんな生き方、こんな考え、自分に与えられた生きがいとは役割とは…、瞑想だ、アーサナヨガだ、呼吸法だ…、アーユルヴェーダだ…、自分を変えたり、考えを変えたりしようという願望なら、結局は同じなのです。
もちろんアーサナヨガも瞑想もその他も、とても良い体験ですよ。
でも、たとえ瞑想やシャバーサナでどんなにシャンティな自分を得て幸せだと思っても、それは移り変わる体験なのです。哲学の講座でより良い考えを重ねても、その時は「おお~!」と思えるのですが、それも一つの体験なのです。その場の雰囲気に共感してシャンティな自分を体験しているだけなのです。 なので、もしその後に家に帰って、家に泥棒が入っていたら?通帳残高が0円になっていたら?すぐにシャンティな体験は吹っ飛ぶはずです。 まず人間にとって、一番いい願望は、「自分は何かによって幸せになるわけじゃない」ということに気づいてゆくことだと思います。 私はアーサナヨガ(アシュタンガヨガ)をもう8年以上しています。これももちろん願望があるからこそ、日々汗だくの朝練を楽しめるのです。 アシュタンガを始めた最初のころの願望は「それがあって幸せ」という願望だったのは確かです。できないことをできるようになりたい!そう思って練習していました。でもその願望が私のエゴとなって、体に無理をしケガをしちゃったり・・・。そこから学ぶのです。「自分にとって大切なものは何か」すると願望が変わってくるのです。 今のアシュタンガの練習は、自分の本質に触れる素晴らしい体験の一つです。私の中のエゴ、無意識に考える「あーしたい、こーしたい」という考えのクセ、自分を人と比較する考えのクセ。そんなマインドの働きがあると、練習にブレや体の力みが生じてうまくいきません。練習を通して、それらを手放した状態を保つことこそが今のアシュタンガヨガに対するの願望です。その心の状態はあるがままに感謝して生きる視点を私に与えてくれるからです。
もちろん体を扱うヨガを指導する仕事ですから、自分の体を探求することは仕事の上でも大切なことです。

幸せは、何かを手に入れることでも、自分を変えることでもありません。 まず、あるがままの自分を受け入れられない、自分の見方や考えのクセを手放すこと。 つまり「あなたには何の問題もないのです。あなたはすでに完璧です。一番の問題はあなたがそのことを知らないという事です」ということを知ること。それを解き明かすのがヴェーダンタの学びです。 「自分を変えること」から「変わらなくてもいい自分」を知るとき、人生で何が大切か、願望の種類が変わってきます。 そこに気づいたとき本当の意味で「ヨーガという生き方・学び」が始まるのです。 それは現在の生活スタイルも生き方も変えずに、お金や名声もいっさい手放さずに、 人生で「私が私にくつろげる」のです♡ IMG_3489.JPG

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人生いろいろ。ヨガの先生もいろいろ。 [ヨーガについての知識]

最近ちょこっと時間があるとき、人の集まりなどに参加しています。

いろんな人やヨガの先生に出会う時間は楽しいものです。

私も含め、みんな一生懸命生きていています。

世の中いろんな職業がありますが、ヨガの先生というお仕事は、生きることとリンクする素晴らしい職業です。

でもその意味がクリアに見えてこないと、ほかの仕事と何ら変わりはありません。

より多くのレッスンを手に入れて、より人気の先生になって、日々頑張って、忙しく充実した自分でないと満足できなくなります。

仕事でもなんでも、それが「成功して幸せ」「充実して幸せ」なのであれば、仕事は苦しみを生む道具になります。

だって、世界の全員が、いわゆる「成功」を手にすることは不可能ですから。成功があるってことは他のだれかが不成功を担ってくれているわけです。

うまくいく人行かない人。それ以前に、恵まれた環境の人、貧しい環境の人。生まれながら病気の人、早く肉体を手放す人(死ぬ人)・・・そもそも人は実に様々な状況なのです。

その「あるがまま」こそがこの世界です。

そして、私たちは「個人」を装っているけれど、「全体」なのです!!

ヨガをする人なら、それが少し見えているはずです。全体の中に生かされている自分に気づいているはずです。それはとても大切なことだと思います。

この客観的視点があるからこそ、自分の人生が計り知れない力に運ばれていると思えたり、人生の悪い状況ですら、時間がたてばいい経験だったと消化できるのです。

でもやっぱり人は、うまくいかないことにイラっとしたり、ひどく落ち込んだりするのです。なぜでしょう。それは「個人」という力強い感覚が、「全体」という真実を見えなくするからです。

その真実を見えなくするものが「無知」というものです。個人とは無知なのです。

たとえその無知を取り除いても、個人のセンスは残りますから、個人の役割をこなしながら「全体」という真実の気づきをもってこの世界を安心して楽しめます。私たちはそこに近づくためにこの世界に存在しているようです。

ヨガのお仕事は、ヨガという生き方を通して、自らもそれに気づいていくのだと思います。

仕事がうまくいって幸せなのではなく、自分自身の本質に目を向けると、仕事のストレスも減って楽になりますね。幸せは自分の外側の状況で叶えるものではないのです。

そして、生徒さんにシャバーサナで「あるがままの自分に満足し安心できている」ことに気づかせてあげるのも、アーサナヨガの大切な要素の一つです。

それは無意識に私を縛りつける「個人」という感覚がちょっと薄れる、それはそれは素敵は体験なのです。無意識ながらに「全体」と繋がって安心しているからです。

だれでも自分自身の安心を求めています。「全体」に気づくと「安心」がふえます。哲学を教えるのではなく、真実を一つの体験(安心)として伝えるのです。

だからまず、ヨガを伝える自分がそこに気づかないとね。自分のために繰り返す日々の練習や瞑想もその道具になります。それはとてもとても大切な時間だと思います。

そしてついに「じゃあ自分っていったい何なんだ?」というところに行き着いたら、いよいよ「ヴェーダンタ」(ヴェーダの知識の結論)に進めるわけです。学びはまだまだ続きます(笑)

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人はなぜ祈るのか? [ヨーガについての知識]

私たちはなぜ初詣で祈るのでしょうか?

初詣をする習慣は宗教ですか?と聞かれると「いいえ」と答える人が多いと思います。

神社で「神に祈る」わけですから「宗教的な行為」でもあります。

もし神様って本当にいるんでしょうか?という質問したら、一般的にどんな答えが多く返ってくるのか予想もつきません(笑)



人は昔から、人間では計り知れない力というものを感じながら生きてきました。

現代の私たちだって、あの時あのタイミングで人と出会ったり、何かが起こったりするような体験を感じることがあります。

なにかその計り知れない力が存在するからこそ、「祈る」という行為が存在しています。

日本人はそれを神様とかご先祖様と表現しますが、昔からその存在に対して祈りや感謝の行為である儀式(初詣、七五三、成人式など)を行ってきました。

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(クリスマスに伊勢神宮に行ったときに寄った猿田彦神社です)

実はヨガもこれと同じです。日本より時代は果てしなく古く、紀元前3000~5000年前ともいわれています。

この頃からの儀式などをまとめた「ヴェーダ」という膨大な知識体があります。

いま日本でも有名な「アーユル・ヴェーダ」もこの知識体の一つです。健康に生きるための儀式から始まった知識体です。今のインドでは医療として存続しています。

何か計り知れない力に対して様々な儀式を行う知識体から、ヨガという生き方が繋がっています。

そのヴェーダの結論がヴェーダンタです。その計り知れない存在となにか?私とはなにか?の知識を学んでいきます。宗教や哲学のもととなる人類共通の知識体です。



私たちはどこまで「自分が」「自分で」生きている!と言えるでしょうか?

私たちの生まれてから途絶えることのない呼吸や心臓の鼓動、消化や循環を促すさまざまな機能、これらは誰が行っているのでしょうか?

そもそもこの時代、この両親、この性別、この肉体を自ら選んで生まれてきましたか?

そんなことに思いを巡らせると、やはり「自分が生きている」というより「何かに生かされている」という考えも、全くのウソや冗談ではなさそうです。

何か計り知れないものの中で生かされている。その中で個人として様々な行いや選択をしながら生きています。

その行いに対して一つ一つ結果を実らせてくれているのも、実はこの計り知れない存在なのです。

実は私たちは「自分の思い通りの結果が必ず返ってくるとは限らない」と知っているのに、10年20年先を予測しながら生きています。

行いの結果は個人の手の内にはないのです…だから人は祈るのです。



私の娘は神社で「好きなアイドルのコンサートでいい席が当たりますように」と祈っているのだそうです(笑)

大人になると少し違います。自分や家族が一年間を無事に過ごせたことに感謝したりします。

人は成熟とともに祈りが感謝となります。

私はヴェーダンタの勉強を通して、この計り知れない存在を深く知るほど、感謝の気持ちも深まってきました。

私たちがこの時代、この瞬間に生かされていること、家族や人との出会い、仕事、役割のすべてが、本当にありがたく感じられます。日本人がよく使う、まさに「おかげ様で」という感じですね。

そして、その気持ちを日常いつも持ち続けるとき、人との関係や接し方が変わったり、周りの環境や状況に対しても深い思いやりの気持ちが生まれたりします。

それは「私」という個人のエゴが少し小さくなる時でもあります。

それこそヨガというライフスタイルが私たちに与えてくれる素晴らしい恩恵だと思います。

私たちが初詣に行くのも、一年の節目に計り知れない存在を想う、大切な宗教的な行為です。

初詣の他にも、日常的に神社や仏前で手を合わせたり、日の出や山など自然の偉大さに手を合わせたりすることも、人が成熟の過程であたりまえに行ってきた、形は違っても人類共通の宗教的な行為の一つなのですね。



ちなみに… 「人の生まれ変わりや前世を信じますか」というスピリチュアルな質問に、「信じる」と答えるのは全体の3割なのだそうです。以前朝日新聞に載っていました。

3割という数字は私は少ないなと思いました。なぜならヨガをする人に限れば、その割合はもっともっと多いと思うからです。

そして、もう一つ。

ヴェーダンタの勉強は、「チャクラが開いた輝いた」とか「深い瞑想でアートマーと出会った」とか(こーゆー教えには要注意デス)怪しいスピリチュアルなものはありません。

私たちが日ごろ見えなくなっている計り知れないものを知り、この世界のあるがままを見たり、自分とは何かを学んでいく勉強です。それがヨガなのです。

あるがままの真実、計り知れないものを知れば知るほと、生きることにリラックスが生まれてきます。私たちは「それを知るために生きている」のです。

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