YOGAのある暮らし
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ヨーガプラサーダのヒロミのBlogです。ヴェーダを学びながら、ヨーガをお伝えしています。
hiromi
2022-03-25T18:10:06+09:00
ja
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サムシンググレート
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-25
3/22 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより今回のクラスで触れた話題の一つです。何か物があるとき、たとえばiPhoneがあるとか、家があるというとき、必ず作者がいるということが理解できます。当然その人は、それを作るための知識を持っているということもわかります。ここに一輪の花があるというとき、1匹の虫がるとき、山がある、石ころがあるというとき、その作者は誰でしょうか。私たちは、その作者を想うこともしないのですよね。「自然だから」という言葉で済ませてしまいます。花も虫も、山も石ころも、確かにあるのですから、確かに作者がいるはずです。そしてその人もその知識を持っているから作品を作れたはずです。このお話を最初に聞いたとき、はっとしたのを思い出します。人間もこの世界の中の作品です。人間はDNAを解析しましたが、DNAが発見できると言うことは、それをつくった作者がいるということですよね。科学者はその作者のことを「サムシンググレート」と呼んでいますね。サムシンググレートのことを、ヨーガでイーシュワラと呼びます。この時間と空間をはじめ、世界全ての作者です。時空を作ったということは時空の中にいないはずです。では他の時空とか、お隣の時空ってあるのかしら?他の時空からこの時空は作れないはずです。ヨーガでは、ではこの時空を作った作者がイーシュワラで、それは知識そのものであり、イーシュワラが自ら作品となって現れていると言われます。みずからが時空として現れ、世界の全てを現したのです。作者と作品が離れていないのがこの世界であるというこが理解できるとき、それは科学とも矛盾がないのです。一般的に私たちはそれを「自然」と呼んでいますよね。シンプルにこの世界のあるがままを理解するための話題です。ですから、ヴェーダーンタの明かす宇宙観は、ヨーガの話題にありがちな、何か不思議体験とか超常現象などは一切扱いません(笑)この世界があるということに想いを向けるだけでも、有難い気持ちになります。世界を知るというのは、あるがままの生きた宇宙の作者に想いを向けるということです。この日、クラスのテキストの本文は「どの形も原子に戻すことができます。そして原子は素粒子に戻すことができます。素粒子までさかのぼるとすでに形がありません。ですから実際には、どの形にも形がないのです。ここに信じる話題は含まれません。リアリティが話題なのです」ここから始まりました。ちょっとマニアックな..
ヨーガを学ぶ朝の60分クラス
hiromi
2022-03-25T18:10:06+09:00
今回のクラスで触れた話題の一つです。
何か物があるとき、たとえばiPhoneがあるとか、家があるというとき、必ず作者がいるということが理解できます。当然その人は、それを作るための知識を持っているということもわかります。
ここに一輪の花があるというとき、1匹の虫がるとき、山がある、石ころがあるというとき、その作者は誰でしょうか。私たちは、その作者を想うこともしないのですよね。「自然だから」という言葉で済ませてしまいます。
花も虫も、山も石ころも、確かにあるのですから、確かに作者がいるはずです。そしてその人もその知識を持っているから作品を作れたはずです。このお話を最初に聞いたとき、はっとしたのを思い出します。
人間もこの世界の中の作品です。人間はDNAを解析しましたが、DNAが発見できると言うことは、それをつくった作者がいるということですよね。科学者はその作者のことを「サムシンググレート」と呼んでいますね。
サムシンググレートのことを、ヨーガでイーシュワラと呼びます。この時間と空間をはじめ、世界全ての作者です。時空を作ったということは時空の中にいないはずです。では他の時空とか、お隣の時空ってあるのかしら?他の時空からこの時空は作れないはずです。
ヨーガでは、ではこの時空を作った作者がイーシュワラで、それは知識そのものであり、イーシュワラが自ら作品となって現れていると言われます。みずからが時空として現れ、世界の全てを現したのです。作者と作品が離れていないのがこの世界であるというこが理解できるとき、それは科学とも矛盾がないのです。一般的に私たちはそれを「自然」と呼んでいますよね。
シンプルにこの世界のあるがままを理解するための話題です。ですから、ヴェーダーンタの明かす宇宙観は、ヨーガの話題にありがちな、何か不思議体験とか超常現象などは一切扱いません(笑)
この世界があるということに想いを向けるだけでも、有難い気持ちになります。世界を知るというのは、あるがままの生きた宇宙の作者に想いを向けるということです。
この日、クラスのテキストの本文は「どの形も原子に戻すことができます。そして原子は素粒子に戻すことができます。素粒子までさかのぼるとすでに形がありません。ですから実際には、どの形にも形がないのです。ここに信じる話題は含まれません。リアリティが話題なのです」ここから始まりました。ちょっとマニアックな話題です。
でも信じる話題ではなく、この世界を知るためにリアリティを理解する話題です。あるがままを理解する客観的な見方が、この世界を安心な場所として生きるために必要な理解する話題ですというのが本日の話題でした。では今日はこの辺で。ありがとうございました。
京都に来ています。「タルカ」さんで南インドのミールスを頂きました。ほんと美味しかった。
京都には1週間ほど滞在するので、3月29日火クラスはお休みです。
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考えから自由な私の発見
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-15
3/15 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより今日の話題は「瞑想する人であるために、外側にいる人を、外側に置いておきなさい」でした。ヨーガのシャバーサナ中に、考え事にハマってしまうことはありませんか?あの最高に心地よい、贅沢なひと時なのに、日常の考え事にハマって抜け出せないなんて…これはこれは、ご愁傷様です。同じように、夜やっとお布団で眠れるのに、考え事がぐるぐる…。非日常を求めて出かけたはずの旅先でも考え事がぐるぐる…。これがまさに「外側にいる人を、外側に置けず、内側に置いている」ということですね。クラスでテキストに使っているスワミダヤーナンダジのお話は実に面白いです。「山を想うとき、私自身は平和です。山が私に平和をくれたわけではありません。私が私に平和を作り出したのです。山々に関して、こうあってほしいという望みを持っていない私に気づいていますから。山は決して私を満たされていない人にはしませんし、何かに足りていないという私をもたらしません。こういった状況が、私が好きになる状況です。だから山が好きなのです。私は満たされない足りてない自分を見なくて済むのですから」私たちは、他の誰かを見た時に、私は何か足りてない人だと思います。そしてどうして彼らは私の思う通りに振舞ってくれないのでしょうと…。もう少し親切に、もう少し同情をもって、もう少し親しみをもってほしいと思います。どのような人を見ても、いつも私は客観的に見ることができず、満たされない人として自分を知ります。そういった人をそのままにして置いておくことができずに、考えは動き出します。自動的な考え事はさらに満たされない自分を思い出させます。もう少し〇〇だったら…、もっと収入の良い仕事だったら…、もう少しまともな親の元に生まれていたら…といつもの考え事がぐるぐる、これもご愁傷さまという感じですが、ありがちなことです。今日のクラスでは、カルマヨーガで最初に学ぶべき大切なことを、改めて復習しました。私たち個人には、そもそも緊張がありません。赤ちゃんの時は緊張がなかったはずです。基本的に人は目の前のことを認識している人、気が付いている人です。そこに考えが過去の経験をもとに主観的な見方をすることで緊張や心の摩擦がおこり、それが欲求や願望に変わります。ここまではヨーガ哲学などでもよく言われることです。ダヤーナンダジの解説は続きます「他の人々がこうあるべきだと思うことは、何も悪いことで..
ヨーガを学ぶ朝の60分クラス
hiromi
2022-03-15T12:41:06+09:00
今日の話題は「瞑想する人であるために、外側にいる人を、外側に置いておきなさい」でした。
ヨーガのシャバーサナ中に、考え事にハマってしまうことはありませんか?あの最高に心地よい、贅沢なひと時なのに、日常の考え事にハマって抜け出せないなんて…これはこれは、ご愁傷様です。
同じように、夜やっとお布団で眠れるのに、考え事がぐるぐる…。非日常を求めて出かけたはずの旅先でも考え事がぐるぐる…。これがまさに「外側にいる人を、外側に置けず、内側に置いている」ということですね。
クラスでテキストに使っているスワミダヤーナンダジのお話は実に面白いです。
「山を想うとき、私自身は平和です。山が私に平和をくれたわけではありません。私が私に平和を作り出したのです。山々に関して、こうあってほしいという望みを持っていない私に気づいていますから。山は決して私を満たされていない人にはしませんし、何かに足りていないという私をもたらしません。こういった状況が、私が好きになる状況です。だから山が好きなのです。私は満たされない足りてない自分を見なくて済むのですから」
私たちは、他の誰かを見た時に、私は何か足りてない人だと思います。そしてどうして彼らは私の思う通りに振舞ってくれないのでしょうと…。もう少し親切に、もう少し同情をもって、もう少し親しみをもってほしいと思います。どのような人を見ても、いつも私は客観的に見ることができず、満たされない人として自分を知ります。そういった人をそのままにして置いておくことができずに、考えは動き出します。自動的な考え事はさらに満たされない自分を思い出させます。もう少し〇〇だったら…、もっと収入の良い仕事だったら…、もう少しまともな親の元に生まれていたら…といつもの考え事がぐるぐる、これもご愁傷さまという感じですが、ありがちなことです。
今日のクラスでは、カルマヨーガで最初に学ぶべき大切なことを、改めて復習しました。
私たち個人には、そもそも緊張がありません。赤ちゃんの時は緊張がなかったはずです。基本的に人は目の前のことを認識している人、気が付いている人です。そこに考えが過去の経験をもとに主観的な見方をすることで緊張や心の摩擦がおこり、それが欲求や願望に変わります。ここまではヨーガ哲学などでもよく言われることです。
ダヤーナンダジの解説は続きます「他の人々がこうあるべきだと思うことは、何も悪いことではありません。何も間違っていません。しかしそこで、私ができる事はします。そして私はどうしようもない事がわかります。どうしようもないままで、私は留まりません。それが変わってゆくのを祈り、彼らがあるがままでいる自由を与えます。ですから私は私自身といて平和です。違いますか?」
ここにヨーガの理解があります。人には誰でも過去の背景があって、そう振舞わざるを得えないのです。そして同じように私にも過去の背景があって、そう振舞わざるを得ないのです。まずカルマヨーガの最初の段階では、この理解とともに相手がそう振舞うことを許し、自由を与えます。自由を与えることができればできるほど、私が自由でいられます。その自由な私があって初めて、祈り・瞑想といった行いを始める人でいられます。さらにこの祈り・瞑想ができる、ある程度落ち着いた理解があることで、ヨーガの知識を学べる人となるのです。
単に考えを変えようとしても、人はさほど変わりません。何かのセミナーを受けてみて、その刺激でしばらくは生き生きする日々が続くことはあります。その時はテキパキ日常をこなし充実感を得られても、また誰かにでくわすときに「満たされない私」と、それにまつわる「考え事」がセットで現れます。私たちは悲しいことに習性を生きているだけなのです。
その習性を超えるとき、祈りや瞑想が必要ですと学びます。でも考え事にハマりやすい人にとっては、祈りや瞑想の時間こそが、その考えに巻き込まれている時間となってしまいます。このジレンマを乗り越えてヨーガという生き方が始まります。
「外側にいる人を、外側に置いておきなさい」相手にも自分自身にも自由を与えることはとても難しのです。学ぶための時間と、ともに学ぶ仲間が必要です。仲間とのディスカッションでなかなか習性を超えられない無力な自分を明かすことも最初はプライドが邪魔します。これも習性です。心を開いてあるがままの自分を語れるときの、喜びや涙があります。私も昔よく泣いてたなとカルマヨーガを学びだしたころを思い出します ^_^
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私にくつろぐ瞑想
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-08
3/8 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより今日の話題は「瞑想」についてでした。今、世の中で一般的に瞑想というと、リラクゼーションやコンセントレーションのこと、つまりリラックスすることや精神集中することが目的のようです。慌ただしい思考から自由になりたいからです。思考は一日中途切れることがないのです。何か一つのことを見て、そしてまた何かを見て・・・いつまでもいつまでも、機械的な流れで考えが続きます。それが一巡りすると、思考はやがてお馴染みの悲しい考えに戻ってきます。人は、その悲しみからの気晴らしを探し出します。いっとき気分転換しリラックスしたいのです。でもそのリラックスが終わると再び思考の流れは動き出し、大きな循環の中をぐるぐるしながらまたお馴染みの悲しみにやってくる、そしてまた気分転換・・・。気分転換のために、瞑想を道具にして、いつものお馴染みの思考を破壊して、本来の自分に気づいていることで、気分をスッキリさせるのです。現代はこういったものを瞑想とかマインドフルネスとか言っているようです。確かに効果はあると思います。私たちはいつも、社会の人間関係の中で役割を体験しています。家庭では母であり、実家では娘、会社の中ではヨガの先生とか会社員とか・・・。役割や立場があり、利害関係や競争、考えの違い、意見の対立などもありますから、常にその関係性の中で緊張があり、自分の役割を上手くこなそうとしています。ですから、その緊張が起こるお馴染みの思考を断ち切って、関わりの世界の「役割観念」を手放してリラックスしたいのですよね。ヨーガの生き方で瞑想は必須です。上記と同じように思考の連鎖を破壊する練習もある程度必要ですが、その先があるのがヨーガの瞑想です。瞑想とは「想う」という行いなのです。お誕生日に、その人のことを想い、その関係に特別にハイライトするように、瞑想もちょっと特別にハイライトして「想う」対象があるのです。例えば七五三のお祝や、成人のお祝などの習慣が今も残っているのは、人間が昔から神様に感謝をささげる儀式をしていた、つまり神様を「想う」対象としてハイライトしていたということです。人間とは、恐らくどんな文化や民族の人も、祈りの儀式を持っていると考えられます。今ではそれは形だけが残り、神が何なのかという教えは失われてしまっているのですが。ヨーガという生き方があるヴェーダの文化は、その儀式の形と教えの中身が今も残っている、地球上で唯一..
ヨーガを学ぶ朝の60分クラス
hiromi
2022-03-08T15:04:54+09:00
今日の話題は「瞑想」についてでした。
今、世の中で一般的に瞑想というと、リラクゼーションやコンセントレーションのこと、つまりリラックスすることや精神集中することが目的のようです。慌ただしい思考から自由になりたいからです。
思考は一日中途切れることがないのです。何か一つのことを見て、そしてまた何かを見て・・・いつまでもいつまでも、機械的な流れで考えが続きます。それが一巡りすると、思考はやがてお馴染みの悲しい考えに戻ってきます。人は、その悲しみからの気晴らしを探し出します。いっとき気分転換しリラックスしたいのです。でもそのリラックスが終わると再び思考の流れは動き出し、大きな循環の中をぐるぐるしながらまたお馴染みの悲しみにやってくる、そしてまた気分転換・・・。
気分転換のために、瞑想を道具にして、いつものお馴染みの思考を破壊して、本来の自分に気づいていることで、気分をスッキリさせるのです。現代はこういったものを瞑想とかマインドフルネスとか言っているようです。確かに効果はあると思います。
私たちはいつも、社会の人間関係の中で役割を体験しています。家庭では母であり、実家では娘、会社の中ではヨガの先生とか会社員とか・・・。役割や立場があり、利害関係や競争、考えの違い、意見の対立などもありますから、常にその関係性の中で緊張があり、自分の役割を上手くこなそうとしています。ですから、その緊張が起こるお馴染みの思考を断ち切って、関わりの世界の「役割観念」を手放してリラックスしたいのですよね。
ヨーガの生き方で瞑想は必須です。上記と同じように思考の連鎖を破壊する練習もある程度必要ですが、その先があるのがヨーガの瞑想です。瞑想とは「想う」という行いなのです。お誕生日に、その人のことを想い、その関係に特別にハイライトするように、瞑想もちょっと特別にハイライトして「想う」対象があるのです。
例えば七五三のお祝や、成人のお祝などの習慣が今も残っているのは、人間が昔から神様に感謝をささげる儀式をしていた、つまり神様を「想う」対象としてハイライトしていたということです。
人間とは、恐らくどんな文化や民族の人も、祈りの儀式を持っていると考えられます。今ではそれは形だけが残り、神が何なのかという教えは失われてしまっているのですが。
ヨーガという生き方があるヴェーダの文化は、その儀式の形と教えの中身が今も残っている、地球上で唯一の文化と言われます。その瞑想とはイーシュワラを「想う」こと。ヨーガの瞑想は、その思う対象を理解してはじめて、できるものなのです。
ヨガスートラには、この教えの部分は書かれていません。瞑想のテクニックや体験しか学べません。ヨガスートラのゴール・サマディは、単なるシャーンティの体験で、悟りではないからです。(サマディは主体と客体の区別がない心地よい体験をするのですね)
瞑想を始めるとき、イーシュワラとは何かを、言葉を使って学びます。世界の全てがイーシュワラです。全てが超知的な秩序法則の中で、人間からバクテリアまで役割を担って、お互いが捧げあって生きていることを知ることから、理解が始まります。そのことすら見えないのが私たちなので、最初の段階では、学んだその世界観を繰り返し思い出すことが瞑想になりいます。
イーシュワラを想う、つまり理解することでイーシュワラが知識になることが目的なのです。それは「想う」対象として確かにいつもあるものだからです。世界の全てがイーシュワラですから、それは私たちの心の中にもあるのです。「人を傷つけてはいけない」ということは誰もが知っています。いわゆる良心みたいなもの、これも知識として人の心に現れています。これもイーシュワラの現れた知識です。だから、私たちはそれは「想う」事ができるのです。いま誰もが、この世界の平和を祈る事ができますよね。
私たちが気がついていなくても、生きている以上イーシュワラとの関係は、途切れることなくいつもあります。だから私たちはイーシュワラを知らなくても感謝の気持ちというものが湧いてくるのですよね。どんな宗教の神であろうと、突き詰めていくと想う対象はたった一つのイーシュワラしかないのです。
宗教を持たない日本人でも、年に1度くらいは神社にいって、その漠然としたイメージの「神様」に感謝の気持ちを捧げますよ。その気持ちは、どの時代のどの人種でも同じなのですよね。感謝の想いを向ける対象は確かに存在するのです。ただそれが何なのかを知らないので、世界にたくさんの宗教が生まれてたくさんの信仰の形ができてしまっただけだと思います。
瞑想でイーシュワラの中を生かされていること、全てを与えられていることに感謝の気持ちを向ける時、その時の私は、母でも娘でも、ヨガの先生でも会社員でもないのです。イーシュワラの中に、感謝の気持ちでくつろいでいる人は、変わることのない「私自身」ベーシックパーソンなのです。
イーシュワラを理解すればするほど、自分の中の感謝の気持ちを汲み上げて、この関わりの世界の中で生かされているという見方が、日常的な見方になってきます。理解することが自分の知識になるということです。知識はやって来て去るものではありません。理解することでずっと私の心にあり続けるものです。その知識があることで、日常の生活でも変わることのない「私自身」がずっと続くのです。私が私にくつろぐ生き方になります。
このあるがままの世界イーシュワラにくつろげる人になって初めて、ヨーガの教えがあなたの中で輝くのです。「あなたは全体の人です。世界はたった一つの意識しかないのです」という知識が明かされるのがヨーガなのです。その時、あなたは仕事やパートナーを変えなくても、お金があってもなくても、健康があっても失っても、その真実のリアリティを生きる事ができます。これがヨーガを生きる人のゴール・モークシャなのです。本来の瞑想とは、理解によってこのヨーガのゴールへと繋がっているものなのです。
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祈リましょう。。。
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-01
3/1 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより今のこの社会情勢の中、祈るということが増えた方も多いかもしれません。コロナや戦争のニュースを見て私も祈ります。誰もが、痛みや悲しみより、平和や平安を望みます。どんどん祈りましょう。祈りは行いですから、目に見えなくても何らかの結果が返ってきます。今日のクラスは、「祈りと与える行為について」の続きでしたが、この話題はブログで書ききれないので、クラス内容の導入のお話です。祈れるって人間だけができることですね。素晴らしい。病気がなくなってほしいです。平和になってほしいです。それは痛みや悲しみを取り除きたいという願いです。人の痛みを見ることで自分の心が痛むのです。それは相手の痛みと同時に、自分の痛みも取り除きたいのかもしれませんね。目の前に痛みがあれば祈りましょう。でも私たちの知らないところでも、痛みはいつもあるのだと思います。私たちの豊かな生活の陰には、辛い状況の労働や貧困があったり、動物たちが殺され解体されたり、目の前に現れない痛みが、もっともっと溢れているのだと思います。それが良いとか悪いとかいう話ではないのです。そうゆう世界を、その中を、私たちは生きているのです。ですから、祈りというのは毎日いつもあるべきものだと思います。それに気がついたなら、どんどん祈りましょう。私もそうしています。祈れるということは、何か未知の力、結果を作り出す力があることを知っているから祈れるのです。人は「運が良い」という言葉を使いますが、もし本当に祈る意味や祈る対象を理解しているなら「運」とか「偶然」とかは言いません。感謝の思いから「与えられた」とか「運ばれた」と言いますよね。これは疑わしいスピリチュアルな話ではなく笑、世の中の一般的な見方にとらわれずに、あるがままの世界をあるがままに見える客観的な見方ができるということです。人が成熟するというのは、その見方ができるということだそうです。与えられた、運ばれたと思えるから、謙虚な気持ちで感謝や祈りとともに生きることができるようになります。実際に私たちは全て与えられているのですよね。最後に、今日のクラスでの話題を、ご紹介したいと思います。「パンチャ・マハー・ヤグニャ」という毎日のお祈りです。5つの項目について、想いを向けるということを、毎日しなさいと言われます。お仏壇の前でも、信じているモノ、落ち着くものを前にして、最初は1分からでも良いのです。毎日あたり..
ヨーガを学ぶ朝の60分クラス
hiromi
2022-03-01T13:06:46+09:00
今のこの社会情勢の中、祈るということが増えた方も多いかもしれません。
コロナや戦争のニュースを見て私も祈ります。誰もが、痛みや悲しみより、平和や平安を望みます。
どんどん祈りましょう。祈りは行いですから、目に見えなくても何らかの結果が返ってきます。
今日のクラスは、「祈りと与える行為について」の続きでしたが、この話題はブログで書ききれないので、クラス内容の導入のお話です。
祈れるって人間だけができることですね。素晴らしい。病気がなくなってほしいです。平和になってほしいです。それは痛みや悲しみを取り除きたいという願いです。人の痛みを見ることで自分の心が痛むのです。それは相手の痛みと同時に、自分の痛みも取り除きたいのかもしれませんね。
目の前に痛みがあれば祈りましょう。でも私たちの知らないところでも、痛みはいつもあるのだと思います。私たちの豊かな生活の陰には、辛い状況の労働や貧困があったり、動物たちが殺され解体されたり、目の前に現れない痛みが、もっともっと溢れているのだと思います。
それが良いとか悪いとかいう話ではないのです。そうゆう世界を、その中を、私たちは生きているのです。ですから、祈りというのは毎日いつもあるべきものだと思います。それに気がついたなら、どんどん祈りましょう。私もそうしています。
祈れるということは、何か未知の力、結果を作り出す力があることを知っているから祈れるのです。人は「運が良い」という言葉を使いますが、もし本当に祈る意味や祈る対象を理解しているなら「運」とか「偶然」とかは言いません。感謝の思いから「与えられた」とか「運ばれた」と言いますよね。
これは疑わしいスピリチュアルな話ではなく笑、世の中の一般的な見方にとらわれずに、あるがままの世界をあるがままに見える客観的な見方ができるということです。人が成熟するというのは、その見方ができるということだそうです。与えられた、運ばれたと思えるから、謙虚な気持ちで感謝や祈りとともに生きることができるようになります。実際に私たちは全て与えられているのですよね。
最後に、今日のクラスでの話題を、ご紹介したいと思います。
「パンチャ・マハー・ヤグニャ」という毎日のお祈りです。5つの項目について、想いを向けるということを、毎日しなさいと言われます。お仏壇の前でも、信じているモノ、落ち着くものを前にして、最初は1分からでも良いのです。毎日あたりまえに続けることができる時、世界が違って見えてくるとおもいます。客観的な見方になるということです。
このお祈りは、わたし自身もカルマヨーガを始めた頃に毎日行っていました。効果抜群だと自分で実証済です。毎日祈ることで、日常でどれだけ狭い世界観しか持てていないかに気がつき始めることでしょう。
1、両親やご先祖など、肉体のルーツに想いを向けましょう。
2、先生やヨーガの教えの伝統に感謝の想いを向けましょう。
3、この世界を成り立たせているもの、大地、水、土、風、太陽、地球・・・全てに感謝。
4、他の生き物たちを想いましょう。周りの小さな生き物たちを守りましょう。
5、家族や同僚など周りの人を想い、与えられる事を、するべき事をしましょう。
毎朝の1分間から。この素敵な時間を習慣にしてみてください。
祈りが私たちの世界を素敵に編み上げますように〜ナマステー^^
お友達のカメラマンMILLAさんから頂いた素敵な写真とともに〜ありがとう!
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内側の強さ。
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2022-02-23
2/22(火)ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより先週は自己尊厳の話題でした。日常生活でダルマな調和の行いを、つまり、するべき事をするべき時にできる人は、自分の内側の喜びを汲み上げて自分に満足できる人となります。それが自己尊厳に繋がりますよ~という話の流れがありました。今日のテキストは「いつでも、誰かの困難に出くわした時、どうかあなたの成熟の機会を失いませんように」という見出しから始まりました。「自己尊前のある人は内側の強さがある人です。ですから内側の強さを得るために援助の手を差し伸べる(与える行為を)練習をするのです。助けられる場所にいるので私は助けます・・・・」(ダヤーナンダジのお話より)ちなみに、援助の手というのは単なるチャリティのことではありません。能力や知識を与えること、物理的な援助でなくとも周りのために自分の役割を全うすること、また話を聞く、寄り添うといった自分の時間を与える行為など、何の賭け引きもなく、惜しみなく手を差し伸べることだと習いました。この「与える行為」で内側の強さを練習をすることと、自己尊厳があることは、どう繋がっているのでしょう。日常で私たちがいう「自己尊厳がある」というのは、自己肯定感が大きいとかポジティブシンキングな人のことかもしれません。その自己尊厳は、外側の状況や成功体験満足から培ったものかもしれないので、人生で大きな衝撃が起きた時、この自己尊厳は損ないやすいものかもしれませんね。ヨーガの生き方の中で、自己尊厳がある人とは、あるがままの自分が喜びで満足の人、全体宇宙のダルマ(秩序調和)を理解した中で、調和を生きる満足がある人です。自分に安心や満足があるからこそ、与える行為ができるし、与える行為ができるから自分の内なる喜び、揺るぎない満足のある人となる、この循環を生きられる人なのです。そのヨーガの生き方が、カルマヨーガの生き方です。時間をかけながら日々の体験(行い)を通してそのダルマ(調和)とは何かを理解します。本を読むだけでは難しいのです。カルマヨーガの中で、行いを通して自分が自分に満足することが増えてきて、そこから自分にリラックスして与える行為ができる人になる、これが自己尊厳がある人になるということですね。私もカルマヨーガを学び始めたころは、ダルマの理解もなく、与える行為ができませんした。無意識に周りと駆け引きしている自分がいるのです。実は、最初のころはもちろん「自分は駆け引きな..
ヨーガを学ぶ朝の60分クラス
hiromi
2022-02-23T06:32:29+09:00
先週は自己尊厳の話題でした。日常生活でダルマな調和の行いを、つまり、するべき事をするべき時にできる人は、自分の内側の喜びを汲み上げて自分に満足できる人となります。それが自己尊厳に繋がりますよ~という話の流れがありました。
今日のテキストは「いつでも、誰かの困難に出くわした時、どうかあなたの成熟の機会を失いませんように」という見出しから始まりました。「自己尊前のある人は内側の強さがある人です。ですから内側の強さを得るために援助の手を差し伸べる(与える行為を)練習をするのです。助けられる場所にいるので私は助けます・・・・」(ダヤーナンダジのお話より)
ちなみに、援助の手というのは単なるチャリティのことではありません。能力や知識を与えること、物理的な援助でなくとも周りのために自分の役割を全うすること、また話を聞く、寄り添うといった自分の時間を与える行為など、何の賭け引きもなく、惜しみなく手を差し伸べることだと習いました。この「与える行為」で内側の強さを練習をすることと、自己尊厳があることは、どう繋がっているのでしょう。
日常で私たちがいう「自己尊厳がある」というのは、自己肯定感が大きいとかポジティブシンキングな人のことかもしれません。その自己尊厳は、外側の状況や成功体験満足から培ったものかもしれないので、人生で大きな衝撃が起きた時、この自己尊厳は損ないやすいものかもしれませんね。
ヨーガの生き方の中で、自己尊厳がある人とは、あるがままの自分が喜びで満足の人、全体宇宙のダルマ(秩序調和)を理解した中で、調和を生きる満足がある人です。自分に安心や満足があるからこそ、与える行為ができるし、与える行為ができるから自分の内なる喜び、揺るぎない満足のある人となる、この循環を生きられる人なのです。
そのヨーガの生き方が、カルマヨーガの生き方です。時間をかけながら日々の体験(行い)を通してそのダルマ(調和)とは何かを理解します。本を読むだけでは難しいのです。カルマヨーガの中で、行いを通して自分が自分に満足することが増えてきて、そこから自分にリラックスして与える行為ができる人になる、これが自己尊厳がある人になるということですね。
私もカルマヨーガを学び始めたころは、ダルマの理解もなく、与える行為ができませんした。無意識に周りと駆け引きしている自分がいるのです。実は、最初のころはもちろん「自分は駆け引きなんてする人ではない」と思っていました。まさに無意識のことなので気が付いていなかったのです。自分に都合よく、損しないように、より多く、より早く・・・こんな考えがすでに習性となって潜んでいました。
人の根底には誰でも、得体の知れない不安感があり、生き延びなければ、認められなければ、という思いが潜んでいます。そこから現れる習性にハマって、日々周りとレスポンスしながら暮らしているのですから、それに気がつくだけでも時間がかかるのです。
カルマヨーガでは、ダルマの理解から、その習性に巻き込まれない練習をします。日々の行いを丁寧に選びながら、自分の行いを全体に捧げて、行いの結果も全体から受け取るという練習をします。習性は変えられません。その習性から自由な行いができる「自分」に気がついていく練習からスタートです。
日常生活というものは、いつものパターンでいつもの調子でイラっとして感情は揺れるし、自分の習性にハマって周りとレスポンスするだけの繰り返しです。習性から自由な私でいることは、そりゃもう大変なことなのです。まさに「内側の強さ」が必要なのです。「どうか助けてください」と祈りながら暮らしはじめます。そして、ゆっくりと習性から自由な行いができるようになる時、自分自身に内なる喜びが溢れます。自分に感動があります。
いろんな私に気が付きます。この世界では知らず知らずに、自分を取り繕うことをして生きています。その気持ちは、いつも自分の行動にも現れています。ファッション・グルメ・仕事・癒し・SNSなど、いろんな分野を利用して、自分のエゴを満たすという習性を生きてきたのです。これが悪いということではなく、習性から自由になれるというのは、人生で本当は何を求めているのかに気が付くということなのです。
カルマヨーガの実践は、考えが綺麗になること(アンタッカラナ・シュッディ)が目的です。これがヨーガの学びのファーストステップです。その綺麗な考えにヴェーダーンタの言葉が明かされます。頭で理解するのではなく、実際の日常の体験から理解するのがカルマヨーガなのです。
私はちょうど10年前にヴェーダーンタに出会っていたのですが、カルマヨーガの大切さにやっと気が付いたのは数年前です。そこからゆっくりとヨーガの生き方に取り組んできました。先生から学ぶ時間に加えて、最近は先生から学ぶ仲間と、ZOOMでディスカッションできる時間も増えてきました。
この世の中、アーサナヨーガをする人は多くても、ヨーガの生き方をしている人はとても少ないのです。私もカルマヨーガやサットサンガの場所を提供し、ともに学ぶ仲間ができると嬉しいなと思い、今まさにクラスという形で、与える行為を練習をさせて頂いてます。まだまだヨーガを伝えることも練習中ですから、聞いてくださる方がいるのは本当に有難いことです。ありがとうございます。
来週は、「人は祈りで自分自身の中に可能な限りの慈悲を呼び起こす必要があります」という後半の話題に入りますね。
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自分にOKを出すために
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2022-02-15
2/15(火)ヨーガを学ぶ朝60分クラスから先週のクラスの話題は「願望」についてでした。願望は誰にでも与えられた恩恵です。でも、結果を出さなきゃ!認められないと!という抑圧があるとき、その願望を叶えるためにアダルマ(調和や秩序に反した行い)をするときは「願望が問題」となります。アダルマな(不調和な)行いをすることは、自分自身の内側に摩擦が起こります。最初は小さな摩擦で気が付かないかもしれませんが、認められないと!という抑圧から、さらにアダルマな行いを繰り返すことで、家族との不調和、自分の体の不調和、環境との不調和、周りの人との不調和などが起こりますね。それに目をつぶっているうちに、自分で自分にOKを出せなくなってしまいます。自己尊厳を失うということです。今日の話題は「自己尊厳」です。自分に対する尊厳、自分の存在を大切に思える気持ちと言えるのではないでしょうか。自己尊厳があるから、私たちは自分にOKが出せて、自分に満足があるのです。日常生活で願望に向かってアダルマがあるとき、ますます自己尊厳を失ってしまうし、自己尊厳がないのでダルマが選べなくなってしまう・・・。今日のクラスでは、ある理解から、自己尊厳を見ていきました。まず、私は私自身をどんな風にとらえているのだろうか?という、私に対する認識についてです。私は「ヨガの先生です」とか、「優秀な会社員です」「裕福な成功者です」とか、この世界に現れた移り変わるものに対して、そこに自己のイメージを重ね、それを自分自身だと思っています。だからそれが失われるとき、人はうろたえてしまいますね。本当は、私とはその移り変わる認識に気が付いている人なのです。考えや感情気分の移り変わりに気が付いている人です。体調の変化に気が付いている人です。周りの世界、お天気のこと、経済のこと、いろんなことに気が付いている人です。本当の私は、この全てに気が付いている客観的な視点の私です。その視点の私は、願望の抑圧から自由で、何かを手に入れたり状況をかえなくても自分がそのままで満足な存在だと気が付いている人です。その私は、優しさや思いやりが溢れる私なのです。しかし、日常生活は忙しく、自分の役割や立場に沿って、周りの人たちと駆け引きしながら生きていることに気が付かずに、その役割や立場に没頭しているのを「自分だ」と認識しています。勘違いの自分にハマって暮らしています。本来の私の視点に気が付いているとき、リラッ..
ヨーガを学ぶ朝の60分クラス
hiromi
2022-02-15T15:19:59+09:00
先週のクラスの話題は「願望」についてでした。願望は誰にでも与えられた恩恵です。でも、結果を出さなきゃ!認められないと!という抑圧があるとき、その願望を叶えるためにアダルマ(調和や秩序に反した行い)をするときは「願望が問題」となります。
アダルマな(不調和な)行いをすることは、自分自身の内側に摩擦が起こります。最初は小さな摩擦で気が付かないかもしれませんが、認められないと!という抑圧から、さらにアダルマな行いを繰り返すことで、家族との不調和、自分の体の不調和、環境との不調和、周りの人との不調和などが起こりますね。それに目をつぶっているうちに、自分で自分にOKを出せなくなってしまいます。自己尊厳を失うということです。
今日の話題は「自己尊厳」です。自分に対する尊厳、自分の存在を大切に思える気持ちと言えるのではないでしょうか。自己尊厳があるから、私たちは自分にOKが出せて、自分に満足があるのです。日常生活で願望に向かってアダルマがあるとき、ますます自己尊厳を失ってしまうし、自己尊厳がないのでダルマが選べなくなってしまう・・・。
今日のクラスでは、ある理解から、自己尊厳を見ていきました。まず、私は私自身をどんな風にとらえているのだろうか?という、私に対する認識についてです。私は「ヨガの先生です」とか、「優秀な会社員です」「裕福な成功者です」とか、この世界に現れた移り変わるものに対して、そこに自己のイメージを重ね、それを自分自身だと思っています。だからそれが失われるとき、人はうろたえてしまいますね。
本当は、私とはその移り変わる認識に気が付いている人なのです。考えや感情気分の移り変わりに気が付いている人です。体調の変化に気が付いている人です。周りの世界、お天気のこと、経済のこと、いろんなことに気が付いている人です。
本当の私は、この全てに気が付いている客観的な視点の私です。その視点の私は、願望の抑圧から自由で、何かを手に入れたり状況をかえなくても自分がそのままで満足な存在だと気が付いている人です。その私は、優しさや思いやりが溢れる私なのです。しかし、日常生活は忙しく、自分の役割や立場に沿って、周りの人たちと駆け引きしながら生きていることに気が付かずに、その役割や立場に没頭しているのを「自分だ」と認識しています。勘違いの自分にハマって暮らしています。
本来の私の視点に気が付いているとき、リラックスや満足があります。だから本当はその私でい続けたいはずなのです。目の前の状況に振り回されて上がったり下がったりの感情の私ではなく、自分らしく穏やかで優しさの溢れる私でいたいのです。
忙しいからという理由で、本当はするべき事をしないで、目先の有利なこと楽なことを優先してしまう私ではなく、周りの人や環境との調和のために、相手を思いやってするべき事をしたほうが心地よい自分がいるのを知っています。本当は社会の中で要領よく振舞って成功しようという自分ではなく、この世界の営みの中でそれぞれが自分の役割を果たして、人から奪うことよりも人に与えることが人生を豊かにすると知る私がいることも、恐らく多くの人が知っているはずです。
その世界全体の調和を想える私、客観的にあるがままの世界を見ることができる視点のある私でいて、調和のある行いを選ぶ強さがあるとき、それを自由意思と呼びます。願望の抑圧に負けている私ではなく、本当の意味で自由な行いができているそのとき、自分が自分に100%のOKを出せるのです。自己尊厳のある人です。内側の強さが溢れる人です。
自己尊厳は、自分自身で内側から汲み上げます。それを「祈り」と言います。
毎日の小さな行いの中で、どうかその想い汲み上げながら行いをしましょう!!
「どうかいつも先延ばしにしているするべき事ができますように」
「どうか体の不調を無視せず、無理のない計画を立てられますように」
「どうかいつもイラっとしていまう状況の時、自分の習性を超えて穏やかに対応でいますように」
「どうか怒りをため込まずに、誰もいない所で言葉にだして、誰も傷つけずに自分をいたわれますように」
「どうか気になるあの人が困っていないか声をかけられますように」
「どうか私を支えてくれる人に感謝の気持ちを伝えられますように」
「どうか自然や動物を傷つけていることに気が付けますように」
「社会が作り上げて理想を追い続ける自分に気がつけますよに」
「自分の中にいる、満たされたい、認められたい気持ちを認めて、その願望に圧倒される私から自由でいられますように」
私たち一人一人に、たくさんの形の祈りがあります。
来週のクラスでは、「祈る人でいるために必要な理解」について深めましょう。
この文章はサンスクリット語を省いているので、生徒さんには逆にわかりにくかったらごめんなさい。
クラスではサンスクリット語の単語と意味も覚えながら、日本語のイメージからくる勘違いを減らしていきましょう。
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願望について考えてみましょう。
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2022-02-08
2/8 本日のクラスから全ての人が望むもの、追い求めるものをプルシャ・アルタと言います。人は誰でも、安心(アルタ)、喜び(カーマ)を求めています。それが様々な形の願望となります。ですから、願望は誰にでも与えられています。お金が欲しい人、名声が欲しい人、権力が欲しい人、また知的な喜びを求めるひと、癒しや快楽を求める人、休日を求める人、アーサナヨーガを求める人、心の静寂を求める人・・・。どんな形であれ、全てがアルタ(安心)やカーマ(喜び)と繋がっていますね。例えばアーサナヨーガをすることに大きな喜びがある人も、それが仕事となるとき、アーサナヨーガはお金を稼ぐためとなりますし、さらに名声を得ようという自分のエゴを満たすものにもなります。それもアルタ(安全)やカーマ(安心)を求めているのです。エゴがあっても何も悪いことではないのです。肉体をもってこの世界に現れた私たちには、みんなアルタやカーマを望む力が与えられています。その人が望む願望の形や大きさ、性質が違うだけで、誰でも望む力が与えられているのです。ある人は裕福になりたいと思うし、ある人は貧しい人を助けたいと思うのです。どんなタイプの望みでも、願望には問題がないのです。ただ願望は、認められなきゃ、結果を出さなきゃといった「もっと、もっと」という無意識の抑圧を作りだします。そこに問題があります。その問題とは、単に執着やエゴ手放せば解決といったものではありません。その、もっともっと!の抑圧があるとき、願望を叶えるために、ダルマ(秩序や調和)に反する、つまりアダルマ(不調和)な行いに人を進ませます。そのアダルマ(不調和)な行いをしてでも、願望を叶えようとするとき、「あなたの自己尊厳が失われる」ということが問題なのです。アダルマ(不調和)な行いをする時、私たちは内側に摩擦を感じるシステムがありモヤモヤを感じます。人には、何がダルマ(調和)で、何がアダルマ(不調和)な行いなのかを、感じとるセンスが備わっているのです。そのセンスはサーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)であり、私たちの内側にいつもいつもあるのです。サーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)を無視するとき、私は私に落ち着くことができません。誰もが自分のアルタ(安心)やカーマ(喜び)を求めて行いをしているのに、もっともっと!と貪欲な願望があるとき、小さなアダルマ(不調和)な行いが始動されます。みんながやっているからこれくら..
ヨーガを学ぶ朝の60分クラス
hiromi
2022-02-08T14:23:32+09:00
全ての人が望むもの、追い求めるものをプルシャ・アルタと言います。人は誰でも、安心(アルタ)、喜び(カーマ)を求めています。それが様々な形の願望となります。
ですから、願望は誰にでも与えられています。お金が欲しい人、名声が欲しい人、権力が欲しい人、また知的な喜びを求めるひと、癒しや快楽を求める人、休日を求める人、アーサナヨーガを求める人、心の静寂を求める人・・・。
どんな形であれ、全てがアルタ(安心)やカーマ(喜び)と繋がっていますね。
例えばアーサナヨーガをすることに大きな喜びがある人も、それが仕事となるとき、アーサナヨーガはお金を稼ぐためとなりますし、さらに名声を得ようという自分のエゴを満たすものにもなります。それもアルタ(安全)やカーマ(安心)を求めているのです。エゴがあっても何も悪いことではないのです。
肉体をもってこの世界に現れた私たちには、みんなアルタやカーマを望む力が与えられています。その人が望む願望の形や大きさ、性質が違うだけで、誰でも望む力が与えられているのです。ある人は裕福になりたいと思うし、ある人は貧しい人を助けたいと思うのです。どんなタイプの望みでも、願望には問題がないのです。
ただ願望は、認められなきゃ、結果を出さなきゃといった「もっと、もっと」という無意識の抑圧を作りだします。そこに問題があります。その問題とは、単に執着やエゴ手放せば解決といったものではありません。その、もっともっと!の抑圧があるとき、願望を叶えるために、ダルマ(秩序や調和)に反する、つまりアダルマ(不調和)な行いに人を進ませます。そのアダルマ(不調和)な行いをしてでも、願望を叶えようとするとき、「あなたの自己尊厳が失われる」ということが問題なのです。
アダルマ(不調和)な行いをする時、私たちは内側に摩擦を感じるシステムがありモヤモヤを感じます。人には、何がダルマ(調和)で、何がアダルマ(不調和)な行いなのかを、感じとるセンスが備わっているのです。そのセンスはサーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)であり、私たちの内側にいつもいつもあるのです。
サーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)を無視するとき、私は私に落ち着くことができません。誰もが自分のアルタ(安心)やカーマ(喜び)を求めて行いをしているのに、もっともっと!と貪欲な願望があるとき、小さなアダルマ(不調和)な行いが始動されます。みんながやっているからこれくらいの事は大丈夫だろう、多少は家庭を犠牲に大丈夫だろう、多少の体の不調和には目をつぶろうとか・・・それが積み重なっていきます。
その時、サーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)があなたの内側に摩擦を作りますから、ますます自分に落ち着くことがきず、落ち着かないあなたは、さらにもっともっと!と願望を叶えようと、あの手この手で突き進みます。願望が叶わないと、さらに状況を変え、仕事を変え、パートナーを変えて突き進みますが、根本的な解決は見つからず、心はモヤモヤのまま・・・ああ辛い。これって人生で誰でも陥りやすいことなのです。
「願望を持てることは恩恵で人の喜びです。」今日のテキストの最初の言葉です。私たちにはサーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)を感じるセンスがありますから、本当は誰でも調和で自分に落ち着きたいのです。そのために大なり小なり願望を持ち行いをします。願望を持てることは喜びです。
ただ、自己尊厳がない私が願望を叶えようとするとき、アダルマ(不調和)な行いをしがちなので、その時、まさに願望が問題となり、あなたに嚙みついてきます。実際のところ、もっともっと!と繰り広げられるこの社会の中で、多くの人が自己尊厳がなく、願望に噛みつかれていることにも気づいてないのかもしれません。
カルマヨーガの生き方は、自由意思を使って、願望を叶えるために行いをします。自由意思とは、何ひとつ抑圧に妨げられていない完全な自由な行いです。この自由意思について学ぶことが、カルマヨーガの生き方でとても大切です。たくさんあるように思われたあなたの願望が、やがて一つになっていきます。そこに人の成熟があるのです。
またクラスで深めていきましょう~
来週は、自己尊厳がある人とはどんな人なのか?が話題になります。
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1年ぶりのクラスを始めました。
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2021-09-22
9/21~朝8:30~zoomのクラスが始まりました。1年ぶりのヴェーダーンタクラスです。でも今回はヴェーダーンタの話題よりカルマーヨーガの実践を目的にクラスを組み立てています。テキストは、インドのテレビ番組でヴェーダーンタの先生が52回のシリーズで語られた番組「スピリチュアルヘリテイジ」をもとにしたカレンダーになります。カレンダー形式ですので、日ごとに話題が異なっていますが、全てがヨーガの理解と深くつながっている興味深い内容になっています。私たちの成熟の意味とは?人生の成功の意味とは?人生のゴールとは何か?など私たちが知らない視点を教えてくれるものがヨーガです。これはどの人種にとっても、どんな状況を生きている人にも、そしてどんな信仰をもっていても、全てに通じる内容です。多少、ヨーガで使う単語、サンスクリット語の意味を理解する必要はあります。なぜなら、日本語を使うと、今までの価値観や経験から意味を勘違いしてしまうことがあるからです。私たちは長い間、生きる中でたくさんの勘違い作り出してきました。この体や考えが、まるごと私です。 嫌な感情が沸いてくるのは私が悪いからです。人は変えられないから、自分が変わるしかない。もっとポジティブに生きないといけない。ヨーがはこれら全てを「No !」と優しく教えてくれます。あなたはすでに素晴らしい知性を与えられています。自分を変えるのではなく、ただ勘違いを手放す必要があります。そして世界をあるがままに正しく見ていくのです。私たちは誰も悪い人はいません。知らないから、ついそんな振る舞いをしてしまうだけなのです。気づかなくても誰もが調和を求めて生きているのです。あるがままの世界を知りましょう。私はなぜ体や考えに縛られるのか。私の感情はどこから現れるのでしょうか。私のリラックスはどこにあるのでしょうか。その答えを論理的に明かしていきます。参加者の年齢は30~70代と幅広いです。集まった皆さんと、どんな風にクラスが運ばれていくのかを楽しみながらお伝えいています。ヨーガの学びを深めて、ゆくゆくはティスカッションもしていけたらと思っています。ともに成熟の道を歩めますように…心から祈っております。ヨーガプラサーダHPからお問い合わせください。
ヨーガを学ぶ朝の60分クラス
hiromi
2021-09-22T14:42:58+09:00
1年ぶりのヴェーダーンタクラスです。でも今回はヴェーダーンタの話題よりカルマーヨーガの実践を目的にクラスを組み立てています。
テキストは、インドのテレビ番組でヴェーダーンタの先生が52回のシリーズで語られた番組「スピリチュアルヘリテイジ」をもとにしたカレンダーになります。
カレンダー形式ですので、日ごとに話題が異なっていますが、全てがヨーガの理解と深くつながっている興味深い内容になっています。
私たちの成熟の意味とは?
人生の成功の意味とは?
人生のゴールとは何か?など
私たちが知らない視点を教えてくれるものがヨーガです。
これはどの人種にとっても、どんな状況を生きている人にも、そしてどんな信仰をもっていても、全てに通じる内容です。
多少、ヨーガで使う単語、サンスクリット語の意味を理解する必要はあります。
なぜなら、日本語を使うと、今までの価値観や経験から意味を勘違いしてしまうことがあるからです。
私たちは長い間、生きる中でたくさんの勘違い作り出してきました。
この体や考えが、まるごと私です。
嫌な感情が沸いてくるのは私が悪いからです。
人は変えられないから、自分が変わるしかない。
もっとポジティブに生きないといけない。
ヨーがはこれら全てを「No !」と優しく教えてくれます。
あなたはすでに素晴らしい知性を与えられています。
自分を変えるのではなく、ただ勘違いを手放す必要があります。
そして世界をあるがままに正しく見ていくのです。
私たちは誰も悪い人はいません。
知らないから、ついそんな振る舞いをしてしまうだけなのです。
気づかなくても誰もが調和を求めて生きているのです。
あるがままの世界を知りましょう。
私はなぜ体や考えに縛られるのか。
私の感情はどこから現れるのでしょうか。
私のリラックスはどこにあるのでしょうか。
その答えを論理的に明かしていきます。
参加者の年齢は30~70代と幅広いです。
集まった皆さんと、どんな風にクラスが運ばれていくのかを楽しみながらお伝えいています。
ヨーガの学びを深めて、ゆくゆくはティスカッションもしていけたらと思っています。
ともに成熟の道を歩めますように…心から祈っております。
ヨーガプラサーダHPからお問い合わせください。
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私が私にリラックスするために。
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-09
心がほんわかリッラックスするのは、どんな時ですか?美しいものを見たとき。自然や芸術に触れたとき。素敵な笑顔に出会ったとき。ふと人の優しさを感じたとき。その時、身の回りの気になる問題や悩み事なんて、すっかり忘れています。あの状況がもっと変わってくれたらいいのに…あの時、あの人がこうしてくれていたら…そんな考えが自動的にまるで無秩序に沸き起こってくるのが「考え」というもの。(ほんとは秩序があるんですが)気持ちをモヤモヤさせるこれらの考えを、いざ手放そうとしても上手くいかないものです。でもこの世界には、そんな考えを忘れさせてくれる、様々なアトラクションが用意されています。SNSの承認とか、仕事の成功やポジティブな考え。若さや美しさかもしれないし、お酒や美味しい食べ物だったしります。それが悪いのではなく、根本的な解決にはなりません。ヨーガや瞑想で、ちょっと心がすっきりするのは、一時的に考えを手放せるからです。その時、私は「ベーシックパーソン」にとどまっています。その時わたしは、親でも子供でもないし、会社員でもないし…役割から自由な人。その時わたしは、成功した人、失敗した人、楽しい人、残念な人といった自分の観念から自由な人。その時わたしは、ここが痛い、具合が悪い、太ってる、瘦せている…体の観念からも自由な人。だから、そのひと時だけリラックスするのです。でも、それも一つの状況にすぎませんからしばらくすると、おなじみの考えが現れて、いつもの自分に戻ってしまいます。ベーシックパーソンとは何なのか。言葉でそれを理解する必要があります。知らないと、ヨーガや瞑想の虜になって、ヨーガ業界の商品を消費し続ける人になってしまいます。それを学んで、自分自身の知識となったとき、自動的にわたしはベーシックパーソンです。ヨガの知識は、自分から離れたものでありませんから、知識が自分自身となるのです。ですから、この知識は自分を分析することではありません。自分の性格や体質を分析する類の商品や知識も、この世界にはあふれていますね。私はこんな性格、体質ですとどんなに分析しても、それらもいつも移り変わるものです。「私とはこんな人」と分析している、その考えを明かしているのは誰ですか?考えの後ろにいて、それを明かしている「わたし」とは何かを学びます。世界にいる人ではなく、いまいるこの世界を明かしているのが私なのでです。私が私にリラックスするために、私を知ること。知..
ヨーガについての知識
hiromi
2021-06-09T14:51:12+09:00
美しいものを見たとき。自然や芸術に触れたとき。
素敵な笑顔に出会ったとき。ふと人の優しさを感じたとき。
その時、身の回りの気になる問題や悩み事なんて、すっかり忘れています。
あの状況がもっと変わってくれたらいいのに…
あの時、あの人がこうしてくれていたら…
そんな考えが自動的にまるで無秩序に沸き起こってくるのが「考え」というもの。(ほんとは秩序があるんですが)
気持ちをモヤモヤさせるこれらの考えを、いざ手放そうとしても上手くいかないものです。
でもこの世界には、そんな考えを忘れさせてくれる、様々なアトラクションが用意されています。
SNSの承認とか、仕事の成功やポジティブな考え。
若さや美しさかもしれないし、お酒や美味しい食べ物だったしります。
それが悪いのではなく、根本的な解決にはなりません。
ヨーガや瞑想で、ちょっと心がすっきりするのは、一時的に考えを手放せるからです。
その時、私は「ベーシックパーソン」にとどまっています。
その時わたしは、親でも子供でもないし、会社員でもないし…役割から自由な人。
その時わたしは、成功した人、失敗した人、楽しい人、残念な人といった自分の観念から自由な人。
その時わたしは、ここが痛い、具合が悪い、太ってる、瘦せている…体の観念からも自由な人。
だから、そのひと時だけリラックスするのです。でも、それも一つの状況にすぎませんから
しばらくすると、おなじみの考えが現れて、いつもの自分に戻ってしまいます。
ベーシックパーソンとは何なのか。言葉でそれを理解する必要があります。
知らないと、ヨーガや瞑想の虜になって、ヨーガ業界の商品を消費し続ける人になってしまいます。
それを学んで、自分自身の知識となったとき、自動的にわたしはベーシックパーソンです。
ヨガの知識は、自分から離れたものでありませんから、知識が自分自身となるのです。
ですから、この知識は自分を分析することではありません。
自分の性格や体質を分析する類の商品や知識も、この世界にはあふれていますね。
私はこんな性格、体質ですとどんなに分析しても、それらもいつも移り変わるものです。
「私とはこんな人」と分析している、その考えを明かしているのは誰ですか?
考えの後ろにいて、それを明かしている「わたし」とは何かを学びます。
世界にいる人ではなく、いまいるこの世界を明かしているのが私なのでです。
私が私にリラックスするために、私を知ること。
知れば知るほど、考えの自分から自由になってきます。
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家庭でお肉を食べなくなりました。
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2021-04-10
お肉を食べなくなって1年以上となりました。お肉を食べない理由を、少し書いてみようと思いました。ベジになるというのは、人によって様々な理由があります。健康のため、環境への影響だったり、ヴィーガンという言葉も広まっていますね。先日、若い方の「やっぱりヴィーガンをやめました」なんて動画も見かけました(笑)ある程度の知識と理解がないと、ファッション感覚では続かないのだと思います。そもそも日本では菜食の環境が整ってないので、気軽にというわけにはいきませんからね。家族に食事を作る主婦にとっても、これはなかなか難しい問題なのです。ヴィーガンという生き方は、動物性のものを食べない、動物由来のものを買わないという生き方です。お肉を食べないことが地球環境のために非常に良い影響があることも、最近ちまたで知られています。これらも理由の一つですが、私にとって一番の理由は「自分に嘘をつきたくない」からです。動物が好きなのに、動物を食べるということに、多少の抵抗感を持ちつつ長い間違和感を無視して食べてきました。ドキュメンタリー映画が好きで、食肉ビジネスの現状を暴いたドキュメンタリーも非常に興味がありました。実際に家畜を処理する映像は、直視することができないものです。悲しいです。動物の命に対しての思いと、さらにはその直視できないようなことをお仕事としている人間がいるという事実も悲しいです。自分が決してやりたくない事を、見知らぬ人にやらせて、涼しい顔でパック詰めされたお肉を買うことも違和感がありました。自分の中に、なにか摩擦が起こるのです。私たちはサーマンニャダルマといって、調和(ダルマ)と不調和(アダルマ)の普遍のセンスをもっています。普遍のセンス。国や人種を超えて誰にでもあるものです。ですから共感する感覚があるのです。自分が嫌なこと痛むことは、他の人にもさせたくないのです。それに気づいている自分を無視したり、噓をつきたくないのです。自分に嘘をついたら、心がザワザワすることは子供でも知っています。自分が自分に落ち着けないのです。みんな自分に落ち着きたいです。だれでも自分と世界との調和を保ち心地よくいたいのです。もちろん、人は気づかない所で不用意に周りを傷つけてしまうことはあるので、全ては避けられない。でもまずは自分自身の中に起こる摩擦に気づいたら、ダルマを選んだ行いをしていきたいのです。犬や猫が愛おしいのと同じように、豚や牛も個性ある命です。私..
ヨーガについての知識
hiromi
2021-04-10T18:11:09+09:00
お肉を食べない理由を、少し書いてみようと思いました。
ベジになるというのは、人によって様々な理由があります。
健康のため、環境への影響だったり、ヴィーガンという言葉も広まっていますね。
先日、若い方の「やっぱりヴィーガンをやめました」なんて動画も見かけました(笑)
ある程度の知識と理解がないと、ファッション感覚では続かないのだと思います。
そもそも日本では菜食の環境が整ってないので、気軽にというわけにはいきませんからね。
家族に食事を作る主婦にとっても、これはなかなか難しい問題なのです。
ヴィーガンという生き方は、動物性のものを食べない、動物由来のものを買わないという生き方です。
お肉を食べないことが地球環境のために非常に良い影響があることも、最近ちまたで知られています。
これらも理由の一つですが、私にとって一番の理由は「自分に嘘をつきたくない」からです。動物が好きなのに、動物を食べるということに、多少の抵抗感を持ちつつ長い間違和感を無視して食べてきました。
ドキュメンタリー映画が好きで、食肉ビジネスの現状を暴いたドキュメンタリーも非常に興味がありました。実際に家畜を処理する映像は、直視することができないものです。悲しいです。
動物の命に対しての思いと、さらにはその直視できないようなことをお仕事としている人間がいるという事実も悲しいです。
自分が決してやりたくない事を、見知らぬ人にやらせて、涼しい顔でパック詰めされたお肉を買うことも違和感がありました。自分の中に、なにか摩擦が起こるのです。
私たちはサーマンニャダルマといって、調和(ダルマ)と不調和(アダルマ)の普遍のセンスをもっています。普遍のセンス。国や人種を超えて誰にでもあるものです。
ですから共感する感覚があるのです。自分が嫌なこと痛むことは、他の人にもさせたくないのです。
それに気づいている自分を無視したり、噓をつきたくないのです。
自分に嘘をついたら、心がザワザワすることは子供でも知っています。自分が自分に落ち着けないのです。みんな自分に落ち着きたいです。だれでも自分と世界との調和を保ち心地よくいたいのです。
もちろん、人は気づかない所で不用意に周りを傷つけてしまうことはあるので、全ては避けられない。でもまずは自分自身の中に起こる摩擦に気づいたら、ダルマを選んだ行いをしていきたいのです。
犬や猫が愛おしいのと同じように、豚や牛も個性ある命です。私たちは他に食べるものがたくさんあるのですから、選べるなら選んで食べるのが心地良いのです。ただそれだけのことです。
ダルマを丁寧に選びたい。ヨーガを学ぶと、その当たり前の価値を大切にす「価値の価値」に気づきます。人生の成功とは、自分自身の調和があってこそ存在するものです。
そして実際に、キッチンや冷蔵庫に動物の死体がないというのは大変心地よいものなのです。
昨年、3週間インドで過ごした時は、もちろんベジのお食事でした。その時、このままベジの食事を続けたいと、インドから家族に思わず電話でお願いしてみたら、なんとOKをもらえて今に至りました。
主人や娘(大学生)は、外で自由にお肉を食べていますが、私が作る毎日のお料理にはお肉を使いません。家族と外食の時、ベジ食がないとき私はお魚を選びます。できるだけ家族とも無駄な摩擦がないように工夫しています。
日常で革やウールの製品もまだ持っていますし、卵製品も食べています。いきなりヴィーガンになるのは難しいので、ゆっくりです。ホントは白米も玄米に変えたいのですが、これは家族の同意が難しそう。
数年前にもベジにしようと試みた時は、家族の反対があり断念しました。主人は未だに唐揚げLoveです(笑) そんな中でも、ゆっくりと今の状況に至ったこと、ここまで運ばれたことを心から感謝しています。
☆食の問題を描いた「世界を変えたくて僕を変えた」という素敵な漫画本があります。漫画以外にもベジについての深いお話や情報、世界のベジ偉人の言葉なども紹介されていてとても興味深い内容なのですが、Amazonでは買えないようです。読んでみたい方がいらっしゃいましたら、お貸しできますので遠慮なくご連絡くださいませ~。
こちらはインド滞在中、アシュラムのご近所農家さん宅でいただいたお食事です。
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思いやり深く演じてみる
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-29
「まるで思いやり深く演じなさい、歯ぎしりしてでも!(笑)」私の講座で見た番組TEDでの一コマ、スワミジのお言葉です。それは「思いやり」についてのお話でした…私たちには共感する力が与えられているので、相手の気持ちに寄り添うことができます。でもそれは一時の「思いやり」なのですよ…と。思いやりをもって人や社会に貢献できるためには、まずは自分が安全で充分なのだ、と感じていなければできません。そして、さらに自分自身の中に、「ある偉大さの意味」を見つけなければなりません。自分がお金持ちだとか、権力があるとか、社会に示せる地位ではなくて、自分自身に偉大さの意味、つまり「全体の意味」を見つけなければなりません。私たちはどんなに悲痛な人生を生きている人でも、悲しみと悲しみの間にとても幸せな瞬間というのがあります。その幸せというのが、たとえつまらないジョークで笑っている時だとしても、その瞬間は自分自身を受け入れています。同時に自分自身のいる状況も受け入れています。それは、全てが完全に受け入れられているということです。主体である私、そして客体である様々なものが、一つの本質の中に溶けこんでしまう瞬間があるのです。どんなに借金があったとしても、解雇や不幸な出来事があっても、その瞬間は幸せでいられます。それこそが、私たちが望んでいる幸せであり、「全体」の意味なのです。その幸せの瞬間が、「全体」のリアリティを明かしています。そこに気づくとき、あなたは新しい人生をはじめます。全てが意味深いことになります。もはや自分自身をとがめる理由がありません。私たちには、限りがあります。体も、能力も、知識も、健康だって。だから楽しい気分も限られてしまいます。思いやりも、全てが限られてゆくでしょう。思いやりを要求することはできません。あなたが限りの無い人にならない限り。そして誰も限りの無い人にはなれません。あなた自身が限りの無い人か、そうでないかの二つに一つです。そしてあなたが限りの無いものではないと言える理由も決して見つけられません。あなたが沢山の限界を持っているにも関わらず、あなたが全体なのです。全体の意味そのものがあなたなのです。あなたが世界と関わるとき、その全体が力強くあらわれる時、それを「愛」というのです。愛は動詞ではありません。名詞です。そして、それ自身が「思いやり」になります。あなた自身がその感情を呼び起こすなら、それがさらに「与える」や「分かち..
ヨーガについての知識
hiromi
2020-09-29T14:53:29+09:00
私の講座で見た番組TEDでの一コマ、スワミジのお言葉です。
それは「思いやり」についてのお話でした…
私たちには共感する力が与えられているので、相手の気持ちに寄り添うことができます。
でもそれは一時の「思いやり」なのですよ…と。
思いやりをもって人や社会に貢献できるためには、まずは自分が安全で充分なのだ、と感じていなければできません。
そして、さらに自分自身の中に、「ある偉大さの意味」を見つけなければなりません。
自分がお金持ちだとか、権力があるとか、社会に示せる地位ではなくて、自分自身に偉大さの意味、つまり「全体の意味」を見つけなければなりません。
私たちはどんなに悲痛な人生を生きている人でも、悲しみと悲しみの間にとても幸せな瞬間というのがあります。
その幸せというのが、たとえつまらないジョークで笑っている時だとしても、その瞬間は自分自身を受け入れています。同時に自分自身のいる状況も受け入れています。
それは、全てが完全に受け入れられているということです。主体である私、そして客体である様々なものが、一つの本質の中に溶けこんでしまう瞬間があるのです。
どんなに借金があったとしても、解雇や不幸な出来事があっても、その瞬間は幸せでいられます。
それこそが、私たちが望んでいる幸せであり、「全体」の意味なのです。
その幸せの瞬間が、「全体」のリアリティを明かしています。そこに気づくとき、あなたは新しい人生をはじめます。全てが意味深いことになります。もはや自分自身をとがめる理由がありません。
私たちには、限りがあります。体も、能力も、知識も、健康だって。だから楽しい気分も限られてしまいます。思いやりも、全てが限られてゆくでしょう。
思いやりを要求することはできません。あなたが限りの無い人にならない限り。そして誰も限りの無い人にはなれません。あなた自身が限りの無い人か、そうでないかの二つに一つです。
そしてあなたが限りの無いものではないと言える理由も決して見つけられません。あなたが沢山の限界を持っているにも関わらず、あなたが全体なのです。全体の意味そのものがあなたなのです。
あなたが世界と関わるとき、その全体が力強くあらわれる時、それを「愛」というのです。愛は動詞ではありません。名詞です。
そして、それ自身が「思いやり」になります。あなた自身がその感情を呼び起こすなら、それがさらに「与える」や「分かち合う」に形を変えてゆきます。
あなたはそもそも「思いやり」を持っているのです。自分の中にそれを発見するために、それを自分自身から汲み出すために、まずあなたが思いやり深く演じなければなりません。
同情深く演じるのです。どうやって? そこが、あなたが「フリ」をしなければならない所です。
思いやり深く演じなさい!歯ぎしりしてでも(笑) 「フリをしてそれを成す」のです
はじめは相対的な思いやりでも、もしあなたが正しい教えを得るなら、ゆっくりとその思いやりというのが、あなた自身の本質が力強く現れたものだと発見するでしょう。
それが、唯一という意味、全体という意味であり、それがあなたなのです。
以上が、日曜の夜に開催したZOOM講座で、みんなで見たスワミジの講話を、私が小さく簡単にまとめたモノです。上手く伝わるかしら…(汗)
講座ではこれを題材に、私たちに備わっている普遍のダルマ「サーマンニャダルマ」の意味や、「知識」とは何かを深めました。
知識の認識には二つのレベルがあります。対象物としての知識と、「直の知識」です。この「直の知識」が理解できるとき、「全体」の意味がゆっくりと見えてきます。
ゆっくりとゆっくりと…それを学ぶのは、自分自身が人生で背負った荷物を、1つずつ手放して身軽になっていくことだよと言われています。
次回からもスワミ ダヤーナンダジのお話を、私たちの先生チェータナーナンダジが日本語に訳してくださったテキストを使ってお伝えしていきますね。次回は10/11(日)です(^^)/
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「怒り」から学んでみる
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-18-1
私に怒りが起こるとき、それは気づきのチャンスです。怒りや感情が沸き起こるのはなぜでしょうか?それは過去に、何かがあったからです。記憶に基づいて、怒りや感情が沸き起こります。なにか自分が馬鹿にされたような、自分が損なわれたような感じ。あるいは、悲しみや、反発する感情、自分を守るために相手を非難したり…。私たちの考えや感情気分は、日々大忙しです(笑)ただ、知らないのです。私にはたくさんの過去の経験と記憶があり、様々な状況を過ごしてきたので、いま怒りが沸き起こりました。ただそれだけのことです。そしてもう一つの事実は、いま私に怒りを起こさせた相手にも、たくさんの過去の経験と記憶があり、様々な状況を過ごしてきたので、いまそんな風に振舞うのです。ただそれだけ。自分の感情を客観的に見るためには、ただこの真実から見てみます。そして自分自身に、その感情から離れる「すき間」を作ります。ヨーガではこれを「シャマ-sama-」と言います。こう考えようとか、考えを変えようとしているわけではありません。怒りを止めるわけでもないし、哲学でもありません。ただ、自分が見えていなかった真実に目を向けるだけです。シャマができれば、自分をネタにできます。「あなたがそんな態度を見せたら、わたし怒っちゃうのよね!」と笑えます。これがヨーガの始まりです。考えを変えるのではなく、真実をみる。私たちは見えているようで見えていないことが沢山あります。ヨーガが教えるリアリティは、ただただビッグな視点です。宇宙規模なのです。ですから世界観とか宇宙観とか言います。その真実をリアルに見ていくことで、自分の客観性シャマがどんどん大きくなります。目の前で大問題だったことが、真実から見ると、ただこの世界で起こっている一つの出来事です。問題から逃げるわけではありません。客観的視点によって、さらに落ち着いて行動できます。自分が自分にリラックスしながら、この世界の出来事を楽しめるのです。「願望を手放せ」なんて言いません。真実の視点から見れば、願望は与えられた恩恵なのです。「考えを止めろ」なんて言いません。考えを止めたら生活できないじゃないですか。ヨガスートラはヨガの聖典ではありません。「心の作用を止めること」は間違いです。考えを止めるのではなく、「間違った見方をしているその視点を正しくしていくこと」なのです。ヨーガでシャマが大きくなると、見えてくることがあります。世界は何か影響しあっ..
ヨーガについての知識
hiromi
2020-09-18T12:31:08+09:00
怒りや感情が沸き起こるのはなぜでしょうか?
それは過去に、何かがあったからです。
記憶に基づいて、怒りや感情が沸き起こります。
なにか自分が馬鹿にされたような、自分が損なわれたような感じ。
あるいは、悲しみや、反発する感情、自分を守るために相手を非難したり…。
私たちの考えや感情気分は、日々大忙しです(笑)
ただ、知らないのです。
私にはたくさんの過去の経験と記憶があり、様々な状況を過ごしてきたので、いま怒りが沸き起こりました。ただそれだけのことです。
そしてもう一つの事実は、いま私に怒りを起こさせた相手にも、たくさんの過去の経験と記憶があり、様々な状況を過ごしてきたので、いまそんな風に振舞うのです。ただそれだけ。
自分の感情を客観的に見るためには、ただこの真実から見てみます。
そして自分自身に、その感情から離れる「すき間」を作ります。
ヨーガではこれを「シャマ-sama-」と言います。
こう考えようとか、考えを変えようとしているわけではありません。
怒りを止めるわけでもないし、哲学でもありません。
ただ、自分が見えていなかった真実に目を向けるだけです。
シャマができれば、自分をネタにできます。
「あなたがそんな態度を見せたら、わたし怒っちゃうのよね!」と笑えます。
これがヨーガの始まりです。考えを変えるのではなく、真実をみる。
私たちは見えているようで見えていないことが沢山あります。
ヨーガが教えるリアリティは、ただただビッグな視点です。
宇宙規模なのです。ですから世界観とか宇宙観とか言います。
その真実をリアルに見ていくことで、自分の客観性シャマがどんどん大きくなります。
目の前で大問題だったことが、真実から見ると、ただこの世界で起こっている一つの出来事です。
問題から逃げるわけではありません。客観的視点によって、さらに落ち着いて行動できます。
自分が自分にリラックスしながら、この世界の出来事を楽しめるのです。
「願望を手放せ」なんて言いません。真実の視点から見れば、願望は与えられた恩恵なのです。
「考えを止めろ」なんて言いません。考えを止めたら生活できないじゃないですか。
ヨガスートラはヨガの聖典ではありません。「心の作用を止めること」は間違いです。
考えを止めるのではなく、「間違った見方をしているその視点を正しくしていくこと」なのです。
ヨーガでシャマが大きくなると、見えてくることがあります。
世界は何か影響しあって、目の前に様々な出来事が起こっていること。
そして自分は何か大きなモノに支えられて運ばれていることが見えてきます。
ヨーガの知識を通して、経験を通して、自分自身に真実をみます。
「私こそがリラックスの意味なのね」と。
いらゆる「ワンネス」は、やって来ては去っていく体験ではありません。
あるがままの世界をあるがままに超客観的に超知的に見るとき、私は私によって理解されます。
それをほんの一時、体験するのが「ヨガアーナンダ」シャバーサナのリラックスです。
自分を完全に受け入れられるのです。その可能性はすでに私に「ある」のです。
だから私たちは、それを求めます。みんな自分にリラックスしたいのです。
こちらのインドのおじさんは怒ってません、ガン見です(笑)
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新しいクラス(勉強会)のご案内
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-18
東京の少し涼しくなりました~夜は虫の声が響き渡りますね。blogを見てくださりありがとうございます。さて、日曜の夜にヨガの学びをお伝えするクラス開催のご案内です。私がこのような講座を始めて、今年で5年目となりました。今回は講座という形ではなく、zoomで自由に参加しやすい形にしたいと思います。テキストは新しく、ヴェーダーンタの世界観を日常の言葉で語られている「Spiritual Heritage 」を使います。これらの、私たちが学ぶテキストは全てスワミチェータナーナンダジが日本語に訳して下さったものです。そして今回から、私は伝統的なやり方と同じダクシナ制でクラスを始めたいと思います。どうぞよろしくお願いします。日曜日20:00-21:30 月3回くらいの予定です。IDをFacebookでお知らせしますので、参加してみたい方はまずメールにてご連絡をください。hiromimurakoshi@gmail.com以下(Facebookより)スケジュールと主な内容です。9/27(日) 20:00-21:30初回は故スワミダヤーナンダジの講話ビデオ(20分)を見てみましょう。これは「思いやり」というテーマでアメリカのTEDで放送されたものです。ヴェーダーンタが明かす真実を日常の言葉で語られています。『人は「全体の意味」を発見しなければなりません。』『「思いやり」というのは、あなた自身の本質が力強く現れたものだと発見するでしょう』スワミジの力強い肉声を日本語訳付きで味わいましょう。スワミジのご紹介や新しいテキスト「Spiritual Heritage」についてもご紹介していきます。(今回のテキストはメールなどで配信となります)10/4(日) 第1話「スピリチュアルな遺産とは何か?」〇私たちはスピリチュアルという言葉に何か曖昧さを感じます。しかしこのインドのスピリチュアルな文化は、全人類の遺産で、生きるための知識体なのです。〇自意識をもつことで足りてない自分に気づく私たちは、生まれながらに満足を求めています。私が満足であるために、全体宇宙とハーモニーである為の選択を練習しなければなりません。この理解からカルマヨーガが始まりますね。〇人生で何が大切なのかが理解できる文化は人類普遍の宝物です。私たちが学ぶヨーガとは何かを、まずは全体像からとらえましょう。10/11(日) 第2話「自己尊厳の発見」〇自己満足のためには自己尊厳が必要です..
ヴェーダンタ勉強会
hiromi
2020-09-18T11:49:30+09:00
blogを見てくださりありがとうございます。
さて、日曜の夜にヨガの学びをお伝えするクラス開催のご案内です。
私がこのような講座を始めて、今年で5年目となりました。
今回は講座という形ではなく、zoomで自由に参加しやすい形にしたいと思います。
テキストは新しく、ヴェーダーンタの世界観を日常の言葉で語られている「Spiritual Heritage 」を使います。これらの、私たちが学ぶテキストは全てスワミチェータナーナンダジが日本語に訳して下さったものです。
そして今回から、私は伝統的なやり方と同じダクシナ制でクラスを始めたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
日曜日20:00-21:30 月3回くらいの予定です。
IDをFacebookでお知らせしますので、参加してみたい方はまずメールにてご連絡をください。
hiromimurakoshi@gmail.com
以下(Facebookより)スケジュールと主な内容です。
9/27(日) 20:00-21:30
初回は故スワミダヤーナンダジの講話ビデオ(20分)を見てみましょう。これは「思いやり」というテーマでアメリカのTEDで放送されたものです。ヴェーダーンタが明かす真実を日常の言葉で語られています。
『人は「全体の意味」を発見しなければなりません。』『「思いやり」というのは、あなた自身の本質が力強く現れたものだと発見するでしょう』
スワミジの力強い肉声を日本語訳付きで味わいましょう。スワミジのご紹介や新しいテキスト「Spiritual Heritage」についてもご紹介していきます。(今回のテキストはメールなどで配信となります)
10/4(日) 第1話「スピリチュアルな遺産とは何か?」
〇私たちはスピリチュアルという言葉に何か曖昧さを感じます。しかしこのインドのスピリチュアルな文化は、全人類の遺産で、生きるための知識体なのです。
〇自意識をもつことで足りてない自分に気づく私たちは、生まれながらに満足を求めています。私が満足であるために、全体宇宙とハーモニーである為の選択を練習しなければなりません。この理解からカルマヨーガが始まりますね。
〇人生で何が大切なのかが理解できる文化は人類普遍の宝物です。私たちが学ぶヨーガとは何かを、まずは全体像からとらえましょう。
10/11(日) 第2話「自己尊厳の発見」
〇自己満足のためには自己尊厳が必要です。自己尊厳には2つのレベルの満足があります。ある程度の自己尊厳がかなう「ある程度の満足」、そして自分自身をあがままに知ることからの「絶対の満足」があります。
〇私たちは、満足に生きるために成功の意味を正しく見る必要があります。これがスピリチュアルに見るということです。
〇私たちに現れてくる願望という能力は、恩恵なのです。願望は大切です。ところがその願望が自己尊厳を失わせる原因となるのはなぜなのでしょうか。
第3話「成功の意味を再定義する」
第4話「健全な考え方の発見」
第5話「与えられているものをよく見てみる」
第6話「神とは何か」…この後からダルマやカルマ、祈り瞑想などの話題やイーシュワラとの関わり方、人の情緒的な成長、ヨーガの生き方の話題へと進んでいきます。
テキストは全部で50話ほどあり長いのですが、まずは12月まで3ヶ月やってみたいと思います~私にとってもチャレンジなのです。
詳しいスケジュールや内容は、その都度ご連絡をだしながら進めていきます。時には復習したりゆっくり進みますので、途中でお休みがあっても大丈夫です。
ご興味ありましたらぜひメッセージでご連絡くださいね。ご質問やお問い合わせもいつでもどうぞ。
よろしくお願いします~〓
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満足のために、頑張らない。
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-07-28
私たちは満足がないから、頑張ります。満足が足りないから、足りよう足りようとします。それが仕事の成功だったり、結婚して幸せな家庭を持つことだったり、ハワイに行くことだったり、人それぞれです。自分が満足できないから、他人の力を借りて満足しようともします。例えばFacebookなどで他人からたくさん承認されることで満足をえたくなるのですね。自分に満足がないので他人の力を借りるわけです。満足には2種類あるとヨガの知識は教えます。「ある程度の満足」と「絶対の満足」です。仕事や何かの成功や他人からの承認を得ることの満足は、ある程度の満足です。仕事の成功で満足を得ても家庭で不満だらけだったり、この分野ではブイブイ言わせて満足があっても他の分野やでは自身がなくて満足が得られなかったり。自分にも満足であり、周りの状況や世界にも全てに満足というのは、なかなかうまく叶いません。なので「ある程度の満足」なのです。しかも自分の満足のために日々努力しても、思い通りの結果が返ってくるわけではありません。私は行い手ではあるけれども、行いの結果は自分の手の内にはないのです。なのにその「ある程度の満足」を成功の意味だと思って、あの手この手で計画を練って努力をします。あるいは思い通りの結果が得られないなら、最初から願望を持たなければ良いという勘違いを持ってしまうことも。日々どんなに努力しても叶うかどうかわからない相対的なもので、自分の成功、つまり満足を得ようというのは難しいことなのです。でもほとんどの人は、それしか満足の方法がわからないので、その道を突き進んでいます。「絶対の満足」というのは、そもそも自分は100%満足な存在だし、周りの人や世界に対しても100%満足で調和があるということです。そのためには、今までとは違った見方、世界観で自分を見直す必要があります。私たちはすでにウン十年と生きて、自分とはこうなのだ!という見方、生き方、ある意味哲学を持って生きてるのです。簡単に見方を変えられるものではありません。でも「絶対の満足」を得たいと思って人は探求し始めます。そのきっかけは、仕事である程度の成功を得た後のむなしさだったり、突然の不幸や事故などで究極の状況となったり、あるいは大変な病気で人生を見直す時だったり、アーサナヨガの後の心地よさにハマったり…人には様々な運ばれ方があります。私は自分自身に満足で、周りの人にも環境にも状況にも満足であるためには..
ヨーガについての知識
hiromi
2020-07-28T11:47:52+09:00
それが仕事の成功だったり、結婚して幸せな家庭を持つことだったり、ハワイに行くことだったり、人それぞれです。
自分が満足できないから、他人の力を借りて満足しようともします。例えばFacebookなどで他人からたくさん承認されることで満足をえたくなるのですね。自分に満足がないので他人の力を借りるわけです。
満足には2種類あるとヨガの知識は教えます。
「ある程度の満足」と「絶対の満足」です。
仕事や何かの成功や他人からの承認を得ることの満足は、ある程度の満足です。
仕事の成功で満足を得ても家庭で不満だらけだったり、この分野ではブイブイ言わせて満足があっても他の分野やでは自身がなくて満足が得られなかったり。自分にも満足であり、周りの状況や世界にも全てに満足というのは、なかなかうまく叶いません。なので「ある程度の満足」なのです。
しかも自分の満足のために日々努力しても、思い通りの結果が返ってくるわけではありません。私は行い手ではあるけれども、行いの結果は自分の手の内にはないのです。なのにその「ある程度の満足」を成功の意味だと思って、あの手この手で計画を練って努力をします。あるいは思い通りの結果が得られないなら、最初から願望を持たなければ良いという勘違いを持ってしまうことも。
日々どんなに努力しても叶うかどうかわからない相対的なもので、自分の成功、つまり満足を得ようというのは難しいことなのです。でもほとんどの人は、それしか満足の方法がわからないので、その道を突き進んでいます。
「絶対の満足」というのは、そもそも自分は100%満足な存在だし、周りの人や世界に対しても100%満足で調和があるということです。そのためには、今までとは違った見方、世界観で自分を見直す必要があります。
私たちはすでにウン十年と生きて、自分とはこうなのだ!という見方、生き方、ある意味哲学を持って生きてるのです。簡単に見方を変えられるものではありません。
でも「絶対の満足」を得たいと思って人は探求し始めます。そのきっかけは、仕事である程度の成功を得た後のむなしさだったり、突然の不幸や事故などで究極の状況となったり、あるいは大変な病気で人生を見直す時だったり、アーサナヨガの後の心地よさにハマったり…人には様々な運ばれ方があります。
私は自分自身に満足で、周りの人にも環境にも状況にも満足であるためには、正しく「あるがままをあるがままに見る」ということを学びます。私たちはそれを知らないのです。それは今までの間違った見方を手放し、ただあるがままの真実を知る、見る、ということです。
それは努力で自分の考えを変えることでもなく、他人や状況やこの世界を変えることでもないのです。
ですから仕事を変えたり、願望を手放したり、パートナーを手放したり(笑)する必要もないのです。
常に移り変わる「ある程度の満足」のために、歯を食いしばって他人と駆け引きしたり、競争をする、そんな努力や頑張りは必要ないのです。「絶対の満足」を学ぶ時間は、知ることで自分にリラックスが増えるので、とても楽な生き方になります。コツコツ勉強時間を重ねる、その努力は必要ですけれども(笑)この学びは駆け引きや競争がないので楽です。なにより自分が自分でいられるのです。
自分の考えで主観的にみている世界を、あるがままにちょっと客観的な「見方」をもってみませんか?ヨガの学びは、最初は自分の固定観念やクセに気づいたり、とても小さな気づきです。やがてそれが時間をかけながら、偉大な視点、世界観となって、私たちに絶対の満足をもたらせてくれるのです。
それがシャンティの本当の意味です。
8月お盆過ぎから、ZOOMで講座を開催しますね。
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インドの文化を理解したい訳
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-07-26
インドから戻ってから約4か月が過ぎました。私の場合は引っ越もあり、12年ぶりに専業主婦となりましたが、さらにコロナの影響も重なり、長い時間を自宅で家族と過ごすことができる、ある意味で人生で貴重な毎日でした。勉強時間も増え、今回のインドでの体験が学びとつながり深まってきました。私の引っ越しで、しばらくヴェーダーンタから離れてしまった方たちから、また何か(講座や勉強会)やらないの?とのお声もいただき、学んだことをまた少しずつ言葉で出していけたら嬉しいです。インドblogにもちらっと載せましたが、インドといっても今では様々な文化が入り混じっています。でも未だに脈々と残る文化と教えがあり、私はそれを受け取りたいと学んでいるのです。なぜならそれは、何一つ矛盾のない世界観(宇宙観)を持っていて、それに基づいて人々の暮らしがありその奥に教えを持っているからです。この教えはなにもインド人のためのモノではなく、人類みんなのためのモノです。それは文化という「形」と、教えという「中身」の両方がしっかりと繋がっている世界観です。人生の生きる意味が、日々の暮らし方として、言葉として、態度として、お金の使い方として、現代もその「形」が残っているのです。日本での暮らしは、七五三や成人式、結婚式、お葬式など、形があっても、その源となる教えを理解するのは難しいですね。世界のどこでも、それぞれの場所で「形」が残っていて、その「中身」である源の教えが整った知識として現代まで残っているのは、世界中でインドだけなのだそうです。私たちは物資に豊かな国に生まれていながら、働くこと、生きることの意味が見えにくいものです。でもこのヨガといういっけん健康体操のような(笑) 瞑想といういっけん宗教チックな(笑)、そんな「形」がいま世界中で試されて、生きにくい現代の私たちに恩恵与えてくれているのは事実です。単なる健康体操なら、他にもたくさんあります。でもヨガにはその「中身」として、私たちが知るべき人生の最終目的へと繋がっています。私たちはそれをスピリチュアルと呼びます。いっけん怪しい響きです。たしかにスピリチュアルという言葉に、宗教や哲学、自己啓発なんかも含まれますから。でもヨガの「中身」である源の教えは、いわゆる今どきのスピリチュアルな種類の話ではありません。インドの一部には、未だにその教えの伝統と方法論が知識として確立されていて、先生から生徒へと現代にも教えが繋が..
コラム
hiromi
2020-07-26T10:24:36+09:00
私の場合は引っ越もあり、12年ぶりに専業主婦となりましたが、さらにコロナの影響も重なり、長い時間を自宅で家族と過ごすことができる、ある意味で人生で貴重な毎日でした。
勉強時間も増え、今回のインドでの体験が学びとつながり深まってきました。
私の引っ越しで、しばらくヴェーダーンタから離れてしまった方たちから、また何か(講座や勉強会)やらないの?とのお声もいただき、学んだことをまた少しずつ言葉で出していけたら嬉しいです。
インドblogにもちらっと載せましたが、インドといっても今では様々な文化が入り混じっています。
でも未だに脈々と残る文化と教えがあり、私はそれを受け取りたいと学んでいるのです。
なぜならそれは、何一つ矛盾のない世界観(宇宙観)を持っていて、それに基づいて人々の暮らしがありその奥に教えを持っているからです。この教えはなにもインド人のためのモノではなく、人類みんなのためのモノです。
それは文化という「形」と、教えという「中身」の両方がしっかりと繋がっている世界観です。
人生の生きる意味が、日々の暮らし方として、言葉として、態度として、お金の使い方として、現代もその「形」が残っているのです。
日本での暮らしは、七五三や成人式、結婚式、お葬式など、形があっても、その源となる教えを理解するのは難しいですね。世界のどこでも、それぞれの場所で「形」が残っていて、その「中身」である源の教えが整った知識として現代まで残っているのは、世界中でインドだけなのだそうです。
私たちは物資に豊かな国に生まれていながら、働くこと、生きることの意味が見えにくいものです。でもこのヨガといういっけん健康体操のような(笑) 瞑想といういっけん宗教チックな(笑)、そんな「形」がいま世界中で試されて、生きにくい現代の私たちに恩恵与えてくれているのは事実です。
単なる健康体操なら、他にもたくさんあります。でもヨガにはその「中身」として、私たちが知るべき人生の最終目的へと繋がっています。私たちはそれをスピリチュアルと呼びます。いっけん怪しい響きです。たしかにスピリチュアルという言葉に、宗教や哲学、自己啓発なんかも含まれますから。
でもヨガの「中身」である源の教えは、いわゆる今どきのスピリチュアルな種類の話ではありません。
インドの一部には、未だにその教えの伝統と方法論が知識として確立されていて、先生から生徒へと現代にも教えが繋がっているのです。ですから、教えと共に、毎日の暮らし方、食べ方、日々の祈りや儀式、季節の行事、暮らしの態度、仕事や結婚の意味、生きる目的までが矛盾なく繋がって、祖父母や両親から子供たちへと伝わっているのです。
むしろその地球上のその整った世界観「形」と「中身」を破壊してきたのが、いわゆる宗教という作られた組織なのです。たくさんの侵略でインドの人々もたくさん改宗させられたようです。
ヨガの源の知識はいわゆる宗教ではないので、伝統と伝える先生たちにも組織がありません。誰が一番偉い人だとか、お金をいくら払わないといけないとか、この修行をしないといけないとか、そんなものがないのです。(インドには怪しい教えがいっぱいありますから、気を付けてくださいね!)
教えと生きる目的が繋がっているので、人々は人生の最終ステージとしてこの教えだけを学ぶ生き方に入ることもできるのです。今でも自分の財産や私物を全て手放し、お金を稼ぐことなどの社会活動から離れて、学ぶことや教えることに没頭しても、それを人々が支えて教えを授かる文化がこの現代に存在しているのです。
2016年ヨガが世界無形文化遺産になったのは、これらの「形」と「中身」そしてその背景の全てが、今も残っているからです。日本人の私たちがその世界観を全て理解するのは容易なことではありません。でも知れば知るほどその見事さや美しさに魅了されてしまいます。「形」や「中身」を知れば知るほど、人生で叶えなければならないことが何かが見えてくるのです。それが本来のヨガの教え=知識なのです。(つまりヨガ哲学ではないのです)
ガンジーの生まれた家にて
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成功の意味とは
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-06-06
アーサナヨガの最後にシャバーサナでじっと横になる。体と呼吸を完全に手放して、時間の感覚も忘れて、あるがままの自分に満足するひととき…とても心地よくて、自分が満たされた気分になります。その心地よさは人を魅了して、ヨガが人生でとても大切なものになり、ヨガのインストラクターをお仕事にしたいという人もたくさんいます。ヨガクラスは生徒さんにそんな時間を提供できる素晴らしいものですが、実際はヨガのお仕事で苦しんでいるインストラクターも多いのです。 心地よいシャバーサナは、自分の内側の調和があります。何かすごい物資を手に入れたわけでもないのに、自分が自分に満たされている、でもそれは一つの過ぎ去る体験です。私たちはもっと日常の生活で満たされたいのです。人生で成功したいのです。自然にいろんな願望がわいてきます。それを叶えたいと思います。この世界ではほかの人が自分よりも成功しているように見えて、自分もそれを手に入れようと努力します。物質的に、経済的に豊かな人、ポジティブな考えを持つ人、ある分野で少し目立つ憧れの人。その願望を叶えるとある程度は満たされるかもしれません。今より少しはいいかもしれませんが、逆に得たものを失う不安や緊張が増えるかもしれないし、さらに高い次なる目標や願望が生まれてくるかもしれません。せっかく手に入れても、友人を傷つけたり、自然を傷つけたり、健康や家族を失ったり…そんな状況を生み出すかもしれません。さらには、何かを失ってから、願望の矛先が変わるかもしれません。願望が叶うかどうかは、努力の量にかかわらず自分の手の内にはありません。期待どおりになるか、それ以上の良い結果となるか、叶わないか、考えもしない結果となるか、このどれかです。時には期待通りにならない時に、自分が自分にがっかりすることも多いのです。成功して自分が満足したいのに、逆に自分を残念な人に思えてしまうかもしれません。でも人はそんな自分を人に見せたくないのです。ヨガのインストラクターならなおさらです。自分の満足、自己尊厳を保つために、笑顔で発信し努力します。成功とは他者からの承認や、社会の立場からの承認によって満たされたいのです。 だからと言って、夢や願望を手放せとか、執着するな、ポジティブに考えろ、ということがヨーガの教えではありません。そもそも自分を満足させるために何か成功を求めることは、人間の勘違いなのです。どうなるのか先が見えないことで、満足..
ヨーガについての知識
hiromi
2020-06-06T12:27:24+09:00
体と呼吸を完全に手放して、時間の感覚も忘れて、あるがままの自分に満足するひととき…とても心地よくて、自分が満たされた気分になります。
その心地よさは人を魅了して、ヨガが人生でとても大切なものになり、ヨガのインストラクターをお仕事にしたいという人もたくさんいます。
ヨガクラスは生徒さんにそんな時間を提供できる素晴らしいものですが、実際はヨガのお仕事で苦しんでいるインストラクターも多いのです。
心地よいシャバーサナは、自分の内側の調和があります。何かすごい物資を手に入れたわけでもないのに、自分が自分に満たされている、でもそれは一つの過ぎ去る体験です。
私たちはもっと日常の生活で満たされたいのです。人生で成功したいのです。自然にいろんな願望がわいてきます。それを叶えたいと思います。
この世界ではほかの人が自分よりも成功しているように見えて、自分もそれを手に入れようと努力します。物質的に、経済的に豊かな人、ポジティブな考えを持つ人、ある分野で少し目立つ憧れの人。
その願望を叶えるとある程度は満たされるかもしれません。今より少しはいいかもしれませんが、逆に得たものを失う不安や緊張が増えるかもしれないし、さらに高い次なる目標や願望が生まれてくるかもしれません。
せっかく手に入れても、友人を傷つけたり、自然を傷つけたり、健康や家族を失ったり…そんな状況を生み出すかもしれません。さらには、何かを失ってから、願望の矛先が変わるかもしれません。
願望が叶うかどうかは、努力の量にかかわらず自分の手の内にはありません。期待どおりになるか、それ以上の良い結果となるか、叶わないか、考えもしない結果となるか、このどれかです。
時には期待通りにならない時に、自分が自分にがっかりすることも多いのです。成功して自分が満足したいのに、逆に自分を残念な人に思えてしまうかもしれません。
でも人はそんな自分を人に見せたくないのです。ヨガのインストラクターならなおさらです。自分の満足、自己尊厳を保つために、笑顔で発信し努力します。成功とは他者からの承認や、社会の立場からの承認によって満たされたいのです。
だからと言って、夢や願望を手放せとか、執着するな、ポジティブに考えろ、ということがヨーガの教えではありません。
そもそも自分を満足させるために何か成功を求めることは、人間の勘違いなのです。どうなるのか先が見えないことで、満足したり、安心したり、自己尊厳を満たすのは無理なのです。
自分が何も手に入れずに、いま、このままで「満足」があるということ。シャバーサナの体験のように、自分が自分自身に満足しているとき、満足とあるがままの自分とが同じ意味になっています。
自分が完全に満足しているとき、この世界と調和しているということです。それは、自分の願望にむけての努力の量とは関係なく、今もすでにあるのです。その理解こそが本当の自己尊厳となります。
その真実を理解するためには、ある種の世界観の理解が必要です。その理解がヨーガの学びです。
理解によって、たとえ成功の結果を手に入れられなくてもある種の満足があります。願望や執着は手放さなくても、ヨーガの学びと理解によって自然と手放されるときが来るかもしれません。
日常生活でその理解を深めていくのがカルマヨーガの生き方。生き方がカルマヨーガになるとき、成功の意味が変わってきます。ヨーガの生き方で、自分自身が理解によって成熟していくことが、「人生の成功」へと変化していくのです。
もちろん世捨て人になる必要はありません。カルマヨーガに仕事も家庭も必要です。環境や状況は何も変える必要はなく、知識の理解によって、自分自身が満足の意味となってきます。
これ以上の完全な満足が他にあるでしょうか?
自分が完全に満足している時、この世界との調和があります。この世界に問題はないのです。
ドワラカにて。クリシュナテンプルの近くにある水辺。
※このコラムは私が長い時間学んできたヨーガの知識を、自分の言葉でまとめる練習をしています~hiromi
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インドに行ってきました-05
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-05-18
アシュラムでは生活は毎朝6時のプージャから一日が始まります。祭壇は毎日カラフルにコーディネイトされてとても華やかでした。スワミニは車で出かけポルバンダルの街中でヴェーダーンタクラスをしたり、曜日によってはスカイプでクラスをしている声がアシュラムのお部屋からも聞こえました。またスラム街の子供たちに教育を与えたり支援する活動などもなさっていると、私の先生チェータナーナンダジから教えてもらいました。私たち日本の生徒は、滞在中に10日間ダッドヴァボーダの聖典クラスをチェータナーナンダジから学びました。私はすでに日本で何度か受けているクラスですが、インドのアシュラムで学ぶとまた違った味わいがありました。アシュラムでの生活は、日々の自分の役割や立場から解放されて、慌ただしさや生きることへ無意識のプレッシャーから解き放たれますね。その解放感は、日本に家族がいることをたまに忘れてしまうほどです(笑) 滞在中にはイベントが3つありました。簡単にご紹介します。まず一つ目、マハーシヴァラートリー。年に何度かあるなかでこの日は一年でもっとも吉兆なシヴァラートリー。夜にたくさんの住民が親子でアシュラムのギリ(小さな丘)に集まり、マイクで盛大にスワミがマントラを唱え、人々は順番にシヴァリンガムにギーをかけて、明け方までシヴァ神に祈りをささげて過ごしました。ヴェーダーンタを勉強する生徒とっても、このシヴァラートリーは吉兆で大切なイベントだと聞いていたのでインド到着して最初のイベントを楽しみにしていたのです。しかし私は渡印の直前に引っ越しをしていて、インドに着いても疲れが取れず…早々お部屋で寝てしまいました(笑)二つ目は、日本の生徒がインドの伝統的な結婚式をあげました。午前中は新郎と新婦を牛車でゆっくり迎えに行くところから始まり、昼食後に伝統的な手順で結婚の儀式を、夕食後にはダンスパーティー。地元のテレビ局も取材に来ての大イベントでした。 インドで結婚式は家族と家族のつながりですし、夫婦でともに人生のゴール目指して成熟していくためのステップ。そのため様々な儀式を繰り返しながら、時間をかけて進む結婚式でした。3つ目は、ホーリーというお祭り。カラフルな粉を掛け合うお祭りなので、インスタ映えするとして観光地では若者に人気のようです。ポルバンダルの街では、ます前日の夜にあちこちで焚火がたかれていました。焚火の周りを裸足で4週回りました。厄払いです。火の..
インド
hiromi
2020-05-18T13:12:17+09:00
祭壇は毎日カラフルにコーディネイトされてとても華やかでした。
スワミニは車で出かけポルバンダルの街中でヴェーダーンタクラスをしたり、曜日によってはスカイプでクラスをしている声がアシュラムのお部屋からも聞こえました。
またスラム街の子供たちに教育を与えたり支援する活動などもなさっていると、私の先生チェータナーナンダジから教えてもらいました。
私たち日本の生徒は、滞在中に10日間ダッドヴァボーダの聖典クラスをチェータナーナンダジから学びました。私はすでに日本で何度か受けているクラスですが、インドのアシュラムで学ぶとまた違った味わいがありました。
アシュラムでの生活は、日々の自分の役割や立場から解放されて、慌ただしさや生きることへ無意識のプレッシャーから解き放たれますね。その解放感は、日本に家族がいることをたまに忘れてしまうほどです(笑)
滞在中にはイベントが3つありました。簡単にご紹介します。
まず一つ目、マハーシヴァラートリー。年に何度かあるなかでこの日は一年でもっとも吉兆なシヴァラートリー。夜にたくさんの住民が親子でアシュラムのギリ(小さな丘)に集まり、マイクで盛大にスワミがマントラを唱え、人々は順番にシヴァリンガムにギーをかけて、明け方までシヴァ神に祈りをささげて過ごしました。
ヴェーダーンタを勉強する生徒とっても、このシヴァラートリーは吉兆で大切なイベントだと聞いていたのでインド到着して最初のイベントを楽しみにしていたのです。しかし私は渡印の直前に引っ越しをしていて、インドに着いても疲れが取れず…早々お部屋で寝てしまいました(笑)
二つ目は、日本の生徒がインドの伝統的な結婚式をあげました。
午前中は新郎と新婦を牛車でゆっくり迎えに行くところから始まり、昼食後に伝統的な手順で結婚の儀式を、夕食後にはダンスパーティー。地元のテレビ局も取材に来ての大イベントでした。
インドで結婚式は家族と家族のつながりですし、夫婦でともに人生のゴール目指して成熟していくためのステップ。そのため様々な儀式を繰り返しながら、時間をかけて進む結婚式でした。
3つ目は、ホーリーというお祭り。
カラフルな粉を掛け合うお祭りなので、インスタ映えするとして観光地では若者に人気のようです。ポルバンダルの街では、ます前日の夜にあちこちで焚火がたかれていました。
焚火の周りを裸足で4週回りました。厄払いです。火の粉が飛んでとても熱いです。
ご近所の方たちが、その周りにお供えもしていました。
ご家庭でも日ごろからプージャをしてるのでしょうね。なんだか美しい光景でした。
この日はスワミニのヴェーダーンタの生徒さんのお宅2軒でチャイなどをごちそうになりました。
ポルバンダルの海の近くに大きなお家がたくさん並んでいて、高級住宅街のようですが、やはり牛は自由に歩き回っていました。
両家とも1階に大きなゲストルームがあり、そこでチャイなどをいただきました。実はもう少しお家の中が見たくて2軒ともおトイレを借りに家の奥までお邪魔させてもらっちゃいました。リビングルームやキッチンもとても素敵でしたよ。
インドでは突然のお客様も歓迎する文化なのだそうです。日本でいうと夕飯時なのですが、みなさんあたたかくお迎えしてくださいました。観光旅行では味わえない体験でした。
その他に、滞在中はポルバンダル市内のガンジーの生まれた家と、ポルバンダルから車で90分ほど北にあるクリシュナ信仰のドワラカへ日帰り巡礼にも行きました。
以上、私たちが日本で楽しむヨーガが、どんな文化の中から生まれてきたのか、その一端を楽しんでいただけたら嬉しいです。ヴェーダの文化を知ることは、やがてヨガ哲学を超えた本来の知識の理解を深めることができます。
写真はどれも日本人のお顔があまり写ってないものを選びましたが…写ってる方ごめんなさいね。
最後に、私のお気に入りのこちらの写真を。アシュラム滞在中に毎日おいしいお食事を作ってくださったマダム。プロの料理人なのだそうです。どおこの素敵な笑顔!間違いなく美味しいお料理が出てきそうでしょ♡
最後までご覧くださりありがとうございました~HIROMI
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インドに行ってきました-04
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-05-16-1
3週間の滞在中、アシュラムの近所の3つのお宅から、夕飯に招いていただきました。毎回スワミニ、スワミジと日本人10人ほどで伺いました。普段からアシュラムにはこのご近所の農家さんがよく来ていて、野菜やミルクなど食材の提供や、食事作りのお手伝い、またティータイムにはポットにチャイを入れて届けてくださったりして、私たちの長期の滞在を支えてくださいました。みなさんいつも素敵な笑顔で接してくれますが、ほとんど言葉は通じないのです。学校に行ける子ですと英単語が少しだけ通じたりするのですが、年配の方たちはみなさん全く英語が通じないのですよ。グジャラート語をスワミニが英語に訳し、さらにスワミジが日本語にしてくだいました。それぞれご家庭によっては、畑まで案内していただいたり、家の中の様子を見せてもらったりしました。暮らしはとても質素で、煮炊きができる簡素なキッチンと寝室があるくらいですが、祭壇があり、家のあちこちに神さまを美しく飾ってあったりしました。最初この質素な暮らしぶりに、私は少し驚きましたが、皆さんと接していると物資がなくてもこんなに豊かな気持ちで暮らせるんだなあと思えてきました。毎日この当たり前にあり続ける世界を豊かに感じるのでしょう。暗闇に太陽が昇り、すべてを明るく照らしあたため、この大地から植物が育ち、その実りが私たちの体と心を満たしています。風が吹き、鳥が鳴き、季節がめぐり、嵐もくる。この世界はすべて神が現れたものなのだと、それを肌身で直に感じているから、当然のことのようにいつも神を想い、運ばれていることに感謝し、出会った私たちにもおしみなく与えるということをしてくださいます。どのご家庭も、スワミが家にくるのはとても吉兆なことなのだそうで嬉しそうでした。とくにお年頃の娘さんたちとスワミニのお話は楽しそうです。グジャラート語なので内容はわかりませんけれども。でも彼女たちの表情やしぐさでスワミニをとても尊敬している様子がわかりました。そう、お年頃の娘さんも、結婚相手は自分で決められないのだそうです。結婚は家同士の結びつきでもあるので、この辺のご家庭は今でも父親が相手を決めるのだそうです。
インド
hiromi
2020-05-16T17:04:14+09:00
毎回スワミニ、スワミジと日本人10人ほどで伺いました。
普段からアシュラムにはこのご近所の農家さんがよく来ていて、野菜やミルクなど食材の提供や、食事作りのお手伝い、またティータイムにはポットにチャイを入れて届けてくださったりして、私たちの長期の滞在を支えてくださいました。
みなさんいつも素敵な笑顔で接してくれますが、ほとんど言葉は通じないのです。学校に行ける子ですと英単語が少しだけ通じたりするのですが、年配の方たちはみなさん全く英語が通じないのですよ。グジャラート語をスワミニが英語に訳し、さらにスワミジが日本語にしてくだいました。
それぞれご家庭によっては、畑まで案内していただいたり、家の中の様子を見せてもらったりしました。暮らしはとても質素で、煮炊きができる簡素なキッチンと寝室があるくらいですが、祭壇があり、家のあちこちに神さまを美しく飾ってあったりしました。
最初この質素な暮らしぶりに、私は少し驚きましたが、皆さんと接していると物資がなくてもこんなに豊かな気持ちで暮らせるんだなあと思えてきました。毎日この当たり前にあり続ける世界を豊かに感じるのでしょう。暗闇に太陽が昇り、すべてを明るく照らしあたため、この大地から植物が育ち、その実りが私たちの体と心を満たしています。
風が吹き、鳥が鳴き、季節がめぐり、嵐もくる。この世界はすべて神が現れたものなのだと、それを肌身で直に感じているから、当然のことのようにいつも神を想い、運ばれていることに感謝し、出会った私たちにもおしみなく与えるということをしてくださいます。
どのご家庭も、スワミが家にくるのはとても吉兆なことなのだそうで嬉しそうでした。とくにお年頃の娘さんたちとスワミニのお話は楽しそうです。グジャラート語なので内容はわかりませんけれども。でも彼女たちの表情やしぐさでスワミニをとても尊敬している様子がわかりました。
そう、お年頃の娘さんも、結婚相手は自分で決められないのだそうです。結婚は家同士の結びつきでもあるので、この辺のご家庭は今でも父親が相手を決めるのだそうです。
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インドに行ってきました-03
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-05-16
ポルバンダルからリキシャで30分ほどの郊外に、3週間ずっと滞在させていただいたアシュラムがあります。アシュラムは広い敷地の中に建っていて、同じ敷地内に宿泊棟や屋根付きの野外食堂がありました。たくさんの鳥の声を聞きながらお外での食事はとても気持ちがよいです。時々リスも遊びにくるような静かなところです。敷地の真ん中はギリ(小さな丘)があります。アシュラム周辺は、農家さんや羊飼いが住んでいる広い平野なので、ギリに登ると360℃ぐるっと周りを見渡せ、日の出や日の入りを眺められます。大きな空には、近くの水場にいる鶴のような大きい渡り鳥が飛び交っていて、時間の流れがとてもゆっくり感じられます。こちらのアシュラムにはスワミニ(女性のスワミ)がお二人いらっしゃいます。私の先生チェータナーナンダジとも仲が良く、日本にいらしたことがあるので写真では拝見しておりました。今回初めてお会いできたのですが、お二人とも明るくパワフルな女性でした。食事の時などはいつも楽しそうなお二人の笑い声が広がります。とくにニガマナンダジのお声は美しく響いていて、それがとっても心地よかったのを今でも覚えています。インドでオレンジ色の布を着ている方(スワミ)は、簡単に言うと、正式な儀式を行って家庭から離れ全ての社会活動からも外れて、所有を放棄して生きる段階に入った方たちです。長く知識を学んでいてすでに教えているスワミもいますが、これからさらに知識を深めていくという段階の人もまだ含まれています。いずれにしても、この生き方に入った人たちを敬い人々が支える社会が、いまもインドには残っているのです。古代からヨーガの源ヴェーダの文化では、”人生の成功”とは、この知識を深めて人が成熟していくこと。いつの時代もスワミたちから学んだり、スワミたちと接することは、とても吉兆な価値のあることです。次の写真では、ご近所の農家の子供が、スワミの足元に手をついて敬意を表すご挨拶をしています。落とし物ひろっているのではないですよ(笑)このヴェーダの世界観を大切に生きる人々は、その世界観が親から子へ受け継がれていきます。スワミたちも人々や社会に守られながら、アシュラムを運営していきます。人々に支えれたアシュラムは、逆に人々を守ります。子供や貧しい人々を支え、学校を作って教育を与え、人の生き方や成長を導きます。さらにアシュラムが大きくなると、世界中から学びたい人々が集まってきて街に雇用を生み..
インド
hiromi
2020-05-16T10:28:35+09:00
アシュラムは広い敷地の中に建っていて、同じ敷地内に宿泊棟や屋根付きの野外食堂がありました。たくさんの鳥の声を聞きながらお外での食事はとても気持ちがよいです。時々リスも遊びにくるような静かなところです。
敷地の真ん中はギリ(小さな丘)があります。アシュラム周辺は、農家さんや羊飼いが住んでいる広い平野なので、ギリに登ると360℃ぐるっと周りを見渡せ、日の出や日の入りを眺められます。大きな空には、近くの水場にいる鶴のような大きい渡り鳥が飛び交っていて、時間の流れがとてもゆっくり感じられます。
こちらのアシュラムにはスワミニ(女性のスワミ)がお二人いらっしゃいます。私の先生チェータナーナンダジとも仲が良く、日本にいらしたことがあるので写真では拝見しておりました。今回初めてお会いできたのですが、お二人とも明るくパワフルな女性でした。食事の時などはいつも楽しそうなお二人の笑い声が広がります。とくにニガマナンダジのお声は美しく響いていて、それがとっても心地よかったのを今でも覚えています。
インドでオレンジ色の布を着ている方(スワミ)は、簡単に言うと、正式な儀式を行って家庭から離れ全ての社会活動からも外れて、所有を放棄して生きる段階に入った方たちです。長く知識を学んでいてすでに教えているスワミもいますが、これからさらに知識を深めていくという段階の人もまだ含まれています。いずれにしても、この生き方に入った人たちを敬い人々が支える社会が、いまもインドには残っているのです。
古代からヨーガの源ヴェーダの文化では、”人生の成功”とは、この知識を深めて人が成熟していくこと。いつの時代もスワミたちから学んだり、スワミたちと接することは、とても吉兆な価値のあることです。
次の写真では、ご近所の農家の子供が、スワミの足元に手をついて敬意を表すご挨拶をしています。落とし物ひろっているのではないですよ(笑)
このヴェーダの世界観を大切に生きる人々は、その世界観が親から子へ受け継がれていきます。スワミたちも人々や社会に守られながら、アシュラムを運営していきます。人々に支えれたアシュラムは、逆に人々を守ります。子供や貧しい人々を支え、学校を作って教育を与え、人の生き方や成長を導きます。
さらにアシュラムが大きくなると、世界中から学びたい人々が集まってきて街に雇用を生みだし、アシュラムを中心に周りの環境が動きだします。助ける人、助けられる人、そのみごとな循環が自然に生まれます。やがてアシュラム全体がひとつの街のように大きくなることもあるそうです。
この現代になっても、インドにはまだアシュラムが運営する学校がとても多いそうです。
そしてこの現代に、お金儲けなしに自然とコミュニティが育ち人々が学び成熟していくなんて、インドにいると人間が生きる原点に来たような気持ちになります。
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インドに行ってきました-02
https://hiromimuraoshi.blog.ss-blog.jp/2020-05-14
成田からムンバイまで直行便でいき、翌日にポルバンダル行きに乗り換えました。同行者は同じ関東ヨギーの先生 サユリさん。彼女は英語堪能なので、とっても助かりました。ムンバイは国際空港でなので、なかなかの都会の雰囲気。ムンバイ国際空港内のホテルに一泊したとき、お暇そうなレストランのウェイターさんが私たちのテーブルに来てぐいぐい聞いてきました。「ポルバンダルへは何をしに行くの?」と。有名な観光地ではないし、日本人がなぜ?という感じです。「ヴェーダーンタの勉強だよ」といっても、彼はヴェーダーンタの言葉を知らない。「ヨーガの勉強だよ」というと、「ああヨーガだね、僕もたまに体を動かすよ~」という感じ。(ちなみに私のリスニング力は怪しいのですが…いつもサユリさんが通訳してくださいます)ヨーガに対する認識は、都会の若いインド人も日本人とほぼ変わらない印象でした。 インドでも、身体を動かすヨーがや瞑想を行ったり、様々な日々の儀式や信仰を行っていても、その源の知識(ヴェーダーンタ)の存在を理解している人は少ないということでしょう。実はこの世界に、たとえばある種の文化や信仰があったとしても、その起源までさかのぼって古代の言葉で源の知識を解明できる伝統が今この現代まで続いているものは、地球上にほとんど残っていないそうです。でもヨーガは違うのです。その源の知識が、紀元前から続く言葉でグル(先生)から生徒へ受け継がれていて、それが日々の習慣や儀式、生き方や文化となり現代まで残っている、それがインドなのですね。しかしこのウェイターさんのように、インドでもほとんどの人がその源の知識を知らないし(というか普通の人は興味がないんですよね笑)日本のようにアーサナヨガも健康のためにやるものなのでしょうね。ポルバンダル空港からはリキシャで、町はずれのアシュラムまで移動しました。滞在中も町中にお買い物に出るときなど、すべてアシュラムでお願いしている運転手さんのリキシャを利用しました。なので、なんの心配もなく笑、いつもリラックスして移動を楽しめました。私はこのリキシャから街並みをながめる時間が、とても楽しいのです。インドの街は活気があったり、混沌としていたり、埃や臭いがひどかったり。人々はあちこちで集まってお喋りしていて、時間の流れがゆったりしています。リキシャやオートバイ、自動車からトラックまで、クラクション鳴らしながら常に合図を出し合って、とてもぎやかに行..
インド
hiromi
2020-05-14T16:34:25+09:00
同行者は同じ関東ヨギーの先生 サユリさん。
彼女は英語堪能なので、とっても助かりました。
ムンバイは国際空港でなので、なかなかの都会の雰囲気。
ムンバイ国際空港内のホテルに一泊したとき、お暇そうなレストランのウェイターさんが私たちのテーブルに来てぐいぐい聞いてきました。
「ポルバンダルへは何をしに行くの?」と。有名な観光地ではないし、日本人がなぜ?という感じです。「ヴェーダーンタの勉強だよ」といっても、彼はヴェーダーンタの言葉を知らない。
「ヨーガの勉強だよ」というと、「ああヨーガだね、僕もたまに体を動かすよ~」という感じ。(ちなみに私のリスニング力は怪しいのですが…いつもサユリさんが通訳してくださいます)
ヨーガに対する認識は、都会の若いインド人も日本人とほぼ変わらない印象でした。
インドでも、身体を動かすヨーがや瞑想を行ったり、様々な日々の儀式や信仰を行っていても、その源の知識(ヴェーダーンタ)の存在を理解している人は少ないということでしょう。
実はこの世界に、たとえばある種の文化や信仰があったとしても、その起源までさかのぼって古代の言葉で源の知識を解明できる伝統が今この現代まで続いているものは、地球上にほとんど残っていないそうです。
でもヨーガは違うのです。その源の知識が、紀元前から続く言葉でグル(先生)から生徒へ受け継がれていて、それが日々の習慣や儀式、生き方や文化となり現代まで残っている、それがインドなのですね。
しかしこのウェイターさんのように、インドでもほとんどの人がその源の知識を知らないし(というか普通の人は興味がないんですよね笑)日本のようにアーサナヨガも健康のためにやるものなのでしょうね。
ポルバンダル空港からはリキシャで、町はずれのアシュラムまで移動しました。滞在中も町中にお買い物に出るときなど、すべてアシュラムでお願いしている運転手さんのリキシャを利用しました。
なので、なんの心配もなく笑、いつもリラックスして移動を楽しめました。私はこのリキシャから街並みをながめる時間が、とても楽しいのです。インドの街は活気があったり、混沌としていたり、埃や臭いがひどかったり。人々はあちこちで集まってお喋りしていて、時間の流れがゆったりしています。
リキシャやオートバイ、自動車からトラックまで、クラクション鳴らしながら常に合図を出し合って、とてもぎやかに行きかう光景。そんな騒々しい道端で、牛や犬がのんびりしています。
動物が動物らしく振舞うことが許されている世界。これって当たり前の事なんですけれど、日本にいると忘れていたような気がします。牛に限ってはインドでは神様ですから特別な存在なのですけどね。
車が激しく行き交う、車スレスレの道端で、犬が両手両足を投げ出してずっと寝ている姿を見ていると、私は「いやいやそれ、リラックスしすぎでしょうが…」と思わず心の中で突っ込んでいたのですが、しばらくすると逆に私たち人間が犬たちに問われているような気がしてきました。。。「オマエら、こーんなにリラックスしたこと、あるのかーい?」ってね。
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