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私にくつろぐ瞑想 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

3/8 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

今日の話題は「瞑想」についてでした。
今、世の中で一般的に瞑想というと、リラクゼーションやコンセントレーションのこと、つまりリラックスすることや精神集中することが目的のようです。慌ただしい思考から自由になりたいからです。

思考は一日中途切れることがないのです。何か一つのことを見て、そしてまた何かを見て・・・いつまでもいつまでも、機械的な流れで考えが続きます。それが一巡りすると、思考はやがてお馴染みの悲しい考えに戻ってきます。人は、その悲しみからの気晴らしを探し出します。いっとき気分転換しリラックスしたいのです。でもそのリラックスが終わると再び思考の流れは動き出し、大きな循環の中をぐるぐるしながらまたお馴染みの悲しみにやってくる、そしてまた気分転換・・・。

気分転換のために、瞑想を道具にして、いつものお馴染みの思考を破壊して、本来の自分に気づいていることで、気分をスッキリさせるのです。現代はこういったものを瞑想とかマインドフルネスとか言っているようです。確かに効果はあると思います。

私たちはいつも、社会の人間関係の中で役割を体験しています。家庭では母であり、実家では娘、会社の中ではヨガの先生とか会社員とか・・・。役割や立場があり、利害関係や競争、考えの違い、意見の対立などもありますから、常にその関係性の中で緊張があり、自分の役割を上手くこなそうとしています。ですから、その緊張が起こるお馴染みの思考を断ち切って、関わりの世界の「役割観念」を手放してリラックスしたいのですよね。



ヨーガの生き方で瞑想は必須です。上記と同じように思考の連鎖を破壊する練習もある程度必要ですが、その先があるのがヨーガの瞑想です。瞑想とは「想う」という行いなのです。お誕生日に、その人のことを想い、その関係に特別にハイライトするように、瞑想もちょっと特別にハイライトして「想う」対象があるのです。

例えば七五三のお祝や、成人のお祝などの習慣が今も残っているのは、人間が昔から神様に感謝をささげる儀式をしていた、つまり神様を「想う」対象としてハイライトしていたということです。

人間とは、恐らくどんな文化や民族の人も、祈りの儀式を持っていると考えられます。今ではそれは形だけが残り、神が何なのかという教えは失われてしまっているのですが。

ヨーガという生き方があるヴェーダの文化は、その儀式の形と教えの中身が今も残っている、地球上で唯一の文化と言われます。その瞑想とはイーシュワラを「想う」こと。ヨーガの瞑想は、その思う対象を理解してはじめて、できるものなのです。

ヨガスートラには、この教えの部分は書かれていません。瞑想のテクニックや体験しか学べません。ヨガスートラのゴール・サマディは、単なるシャーンティの体験で、悟りではないからです。(サマディは主体と客体の区別がない心地よい体験をするのですね)



瞑想を始めるとき、イーシュワラとは何かを、言葉を使って学びます。世界の全てがイーシュワラです。全てが超知的な秩序法則の中で、人間からバクテリアまで役割を担って、お互いが捧げあって生きていることを知ることから、理解が始まります。そのことすら見えないのが私たちなので、最初の段階では、学んだその世界観を繰り返し思い出すことが瞑想になりいます。

イーシュワラを想う、つまり理解することでイーシュワラが知識になることが目的なのです。それは「想う」対象として確かにいつもあるものだからです。世界の全てがイーシュワラですから、それは私たちの心の中にもあるのです。「人を傷つけてはいけない」ということは誰もが知っています。いわゆる良心みたいなもの、これも知識として人の心に現れています。これもイーシュワラの現れた知識です。だから、私たちはそれは「想う」事ができるのです。いま誰もが、この世界の平和を祈る事ができますよね。

私たちが気がついていなくても、生きている以上イーシュワラとの関係は、途切れることなくいつもあります。だから私たちはイーシュワラを知らなくても感謝の気持ちというものが湧いてくるのですよね。どんな宗教の神であろうと、突き詰めていくと想う対象はたった一つのイーシュワラしかないのです。

宗教を持たない日本人でも、年に1度くらいは神社にいって、その漠然としたイメージの「神様」に感謝の気持ちを捧げますよ。その気持ちは、どの時代のどの人種でも同じなのですよね。感謝の想いを向ける対象は確かに存在するのです。ただそれが何なのかを知らないので、世界にたくさんの宗教が生まれてたくさんの信仰の形ができてしまっただけだと思います。



瞑想でイーシュワラの中を生かされていること、全てを与えられていることに感謝の気持ちを向ける時、その時の私は、母でも娘でも、ヨガの先生でも会社員でもないのです。イーシュワラの中に、感謝の気持ちでくつろいでいる人は、変わることのない「私自身」ベーシックパーソンなのです。

イーシュワラを理解すればするほど、自分の中の感謝の気持ちを汲み上げて、この関わりの世界の中で生かされているという見方が、日常的な見方になってきます。理解することが自分の知識になるということです。知識はやって来て去るものではありません。理解することでずっと私の心にあり続けるものです。その知識があることで、日常の生活でも変わることのない「私自身」がずっと続くのです。私が私にくつろぐ生き方になります。

このあるがままの世界イーシュワラにくつろげる人になって初めて、ヨーガの教えがあなたの中で輝くのです。「あなたは全体の人です。世界はたった一つの意識しかないのです」という知識が明かされるのがヨーガなのです。その時、あなたは仕事やパートナーを変えなくても、お金があってもなくても、健康があっても失っても、その真実のリアリティを生きる事ができます。これがヨーガを生きる人のゴール・モークシャなのです。本来の瞑想とは、理解によってこのヨーガのゴールへと繋がっているものなのです。
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