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サムシンググレート [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

3/22 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

今回のクラスで触れた話題の一つです。

何か物があるとき、たとえばiPhoneがあるとか、家があるというとき、必ず作者がいるということが理解できます。当然その人は、それを作るための知識を持っているということもわかります。

ここに一輪の花があるというとき、1匹の虫がるとき、山がある、石ころがあるというとき、その作者は誰でしょうか。私たちは、その作者を想うこともしないのですよね。「自然だから」という言葉で済ませてしまいます。

花も虫も、山も石ころも、確かにあるのですから、確かに作者がいるはずです。そしてその人もその知識を持っているから作品を作れたはずです。このお話を最初に聞いたとき、はっとしたのを思い出します。

人間もこの世界の中の作品です。人間はDNAを解析しましたが、DNAが発見できると言うことは、それをつくった作者がいるということですよね。科学者はその作者のことを「サムシンググレート」と呼んでいますね。


サムシンググレートのことを、ヨーガでイーシュワラと呼びます。この時間と空間をはじめ、世界全ての作者です。時空を作ったということは時空の中にいないはずです。では他の時空とか、お隣の時空ってあるのかしら?他の時空からこの時空は作れないはずです。

ヨーガでは、ではこの時空を作った作者がイーシュワラで、それは知識そのものであり、イーシュワラが自ら作品となって現れていると言われます。みずからが時空として現れ、世界の全てを現したのです。作者と作品が離れていないのがこの世界であるというこが理解できるとき、それは科学とも矛盾がないのです。一般的に私たちはそれを「自然」と呼んでいますよね。

シンプルにこの世界のあるがままを理解するための話題です。ですから、ヴェーダーンタの明かす宇宙観は、ヨーガの話題にありがちな、何か不思議体験とか超常現象などは一切扱いません(笑)



この世界があるということに想いを向けるだけでも、有難い気持ちになります。世界を知るというのは、あるがままの生きた宇宙の作者に想いを向けるということです。

この日、クラスのテキストの本文は「どの形も原子に戻すことができます。そして原子は素粒子に戻すことができます。素粒子までさかのぼるとすでに形がありません。ですから実際には、どの形にも形がないのです。ここに信じる話題は含まれません。リアリティが話題なのです」ここから始まりました。ちょっとマニアックな話題です。

でも信じる話題ではなく、この世界を知るためにリアリティを理解する話題です。あるがままを理解する客観的な見方が、この世界を安心な場所として生きるために必要な理解する話題ですというのが本日の話題でした。では今日はこの辺で。ありがとうございました。

京都に来ています。「タルカ」さんで南インドのミールスを頂きました。ほんと美味しかった。

京都には1週間ほど滞在するので、3月29日火クラスはお休みです。




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考えから自由な私の発見 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

3/15 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

今日の話題は「瞑想する人であるために、外側にいる人を、外側に置いておきなさい」でした。

ヨーガのシャバーサナ中に、考え事にハマってしまうことはありませんか?あの最高に心地よい、贅沢なひと時なのに、日常の考え事にハマって抜け出せないなんて…これはこれは、ご愁傷様です。
同じように、夜やっとお布団で眠れるのに、考え事がぐるぐる…。非日常を求めて出かけたはずの旅先でも考え事がぐるぐる…。これがまさに「外側にいる人を、外側に置けず、内側に置いている」ということですね。

クラスでテキストに使っているスワミダヤーナンダジのお話は実に面白いです。
「山を想うとき、私自身は平和です。山が私に平和をくれたわけではありません。私が私に平和を作り出したのです。山々に関して、こうあってほしいという望みを持っていない私に気づいていますから。山は決して私を満たされていない人にはしませんし、何かに足りていないという私をもたらしません。こういった状況が、私が好きになる状況です。だから山が好きなのです。私は満たされない足りてない自分を見なくて済むのですから」

私たちは、他の誰かを見た時に、私は何か足りてない人だと思います。そしてどうして彼らは私の思う通りに振舞ってくれないのでしょうと…。もう少し親切に、もう少し同情をもって、もう少し親しみをもってほしいと思います。どのような人を見ても、いつも私は客観的に見ることができず、満たされない人として自分を知ります。そういった人をそのままにして置いておくことができずに、考えは動き出します。自動的な考え事はさらに満たされない自分を思い出させます。もう少し〇〇だったら…、もっと収入の良い仕事だったら…、もう少しまともな親の元に生まれていたら…といつもの考え事がぐるぐる、これもご愁傷さまという感じですが、ありがちなことです。



今日のクラスでは、カルマヨーガで最初に学ぶべき大切なことを、改めて復習しました。
私たち個人には、そもそも緊張がありません。赤ちゃんの時は緊張がなかったはずです。基本的に人は目の前のことを認識している人、気が付いている人です。そこに考えが過去の経験をもとに主観的な見方をすることで緊張や心の摩擦がおこり、それが欲求や願望に変わります。ここまではヨーガ哲学などでもよく言われることです。

ダヤーナンダジの解説は続きます「他の人々がこうあるべきだと思うことは、何も悪いことではありません。何も間違っていません。しかしそこで、私ができる事はします。そして私はどうしようもない事がわかります。どうしようもないままで、私は留まりません。それが変わってゆくのを祈り、彼らがあるがままでいる自由を与えます。ですから私は私自身といて平和です。違いますか?」

ここにヨーガの理解があります。人には誰でも過去の背景があって、そう振舞わざるを得えないのです。そして同じように私にも過去の背景があって、そう振舞わざるを得ないのです。まずカルマヨーガの最初の段階では、この理解とともに相手がそう振舞うことを許し、自由を与えます。自由を与えることができればできるほど、私が自由でいられます。その自由な私があって初めて、祈り・瞑想といった行いを始める人でいられます。さらにこの祈り・瞑想ができる、ある程度落ち着いた理解があることで、ヨーガの知識を学べる人となるのです。

単に考えを変えようとしても、人はさほど変わりません。何かのセミナーを受けてみて、その刺激でしばらくは生き生きする日々が続くことはあります。その時はテキパキ日常をこなし充実感を得られても、また誰かにでくわすときに「満たされない私」と、それにまつわる「考え事」がセットで現れます。私たちは悲しいことに習性を生きているだけなのです。

その習性を超えるとき、祈りや瞑想が必要ですと学びます。でも考え事にハマりやすい人にとっては、祈りや瞑想の時間こそが、その考えに巻き込まれている時間となってしまいます。このジレンマを乗り越えてヨーガという生き方が始まります。

「外側にいる人を、外側に置いておきなさい」相手にも自分自身にも自由を与えることはとても難しのです。学ぶための時間と、ともに学ぶ仲間が必要です。仲間とのディスカッションでなかなか習性を超えられない無力な自分を明かすことも最初はプライドが邪魔します。これも習性です。心を開いてあるがままの自分を語れるときの、喜びや涙があります。私も昔よく泣いてたなとカルマヨーガを学びだしたころを思い出します ^_^



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私にくつろぐ瞑想 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

3/8 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

今日の話題は「瞑想」についてでした。
今、世の中で一般的に瞑想というと、リラクゼーションやコンセントレーションのこと、つまりリラックスすることや精神集中することが目的のようです。慌ただしい思考から自由になりたいからです。

思考は一日中途切れることがないのです。何か一つのことを見て、そしてまた何かを見て・・・いつまでもいつまでも、機械的な流れで考えが続きます。それが一巡りすると、思考はやがてお馴染みの悲しい考えに戻ってきます。人は、その悲しみからの気晴らしを探し出します。いっとき気分転換しリラックスしたいのです。でもそのリラックスが終わると再び思考の流れは動き出し、大きな循環の中をぐるぐるしながらまたお馴染みの悲しみにやってくる、そしてまた気分転換・・・。

気分転換のために、瞑想を道具にして、いつものお馴染みの思考を破壊して、本来の自分に気づいていることで、気分をスッキリさせるのです。現代はこういったものを瞑想とかマインドフルネスとか言っているようです。確かに効果はあると思います。

私たちはいつも、社会の人間関係の中で役割を体験しています。家庭では母であり、実家では娘、会社の中ではヨガの先生とか会社員とか・・・。役割や立場があり、利害関係や競争、考えの違い、意見の対立などもありますから、常にその関係性の中で緊張があり、自分の役割を上手くこなそうとしています。ですから、その緊張が起こるお馴染みの思考を断ち切って、関わりの世界の「役割観念」を手放してリラックスしたいのですよね。



ヨーガの生き方で瞑想は必須です。上記と同じように思考の連鎖を破壊する練習もある程度必要ですが、その先があるのがヨーガの瞑想です。瞑想とは「想う」という行いなのです。お誕生日に、その人のことを想い、その関係に特別にハイライトするように、瞑想もちょっと特別にハイライトして「想う」対象があるのです。

例えば七五三のお祝や、成人のお祝などの習慣が今も残っているのは、人間が昔から神様に感謝をささげる儀式をしていた、つまり神様を「想う」対象としてハイライトしていたということです。

人間とは、恐らくどんな文化や民族の人も、祈りの儀式を持っていると考えられます。今ではそれは形だけが残り、神が何なのかという教えは失われてしまっているのですが。

ヨーガという生き方があるヴェーダの文化は、その儀式の形と教えの中身が今も残っている、地球上で唯一の文化と言われます。その瞑想とはイーシュワラを「想う」こと。ヨーガの瞑想は、その思う対象を理解してはじめて、できるものなのです。

ヨガスートラには、この教えの部分は書かれていません。瞑想のテクニックや体験しか学べません。ヨガスートラのゴール・サマディは、単なるシャーンティの体験で、悟りではないからです。(サマディは主体と客体の区別がない心地よい体験をするのですね)



瞑想を始めるとき、イーシュワラとは何かを、言葉を使って学びます。世界の全てがイーシュワラです。全てが超知的な秩序法則の中で、人間からバクテリアまで役割を担って、お互いが捧げあって生きていることを知ることから、理解が始まります。そのことすら見えないのが私たちなので、最初の段階では、学んだその世界観を繰り返し思い出すことが瞑想になりいます。

イーシュワラを想う、つまり理解することでイーシュワラが知識になることが目的なのです。それは「想う」対象として確かにいつもあるものだからです。世界の全てがイーシュワラですから、それは私たちの心の中にもあるのです。「人を傷つけてはいけない」ということは誰もが知っています。いわゆる良心みたいなもの、これも知識として人の心に現れています。これもイーシュワラの現れた知識です。だから、私たちはそれは「想う」事ができるのです。いま誰もが、この世界の平和を祈る事ができますよね。

私たちが気がついていなくても、生きている以上イーシュワラとの関係は、途切れることなくいつもあります。だから私たちはイーシュワラを知らなくても感謝の気持ちというものが湧いてくるのですよね。どんな宗教の神であろうと、突き詰めていくと想う対象はたった一つのイーシュワラしかないのです。

宗教を持たない日本人でも、年に1度くらいは神社にいって、その漠然としたイメージの「神様」に感謝の気持ちを捧げますよ。その気持ちは、どの時代のどの人種でも同じなのですよね。感謝の想いを向ける対象は確かに存在するのです。ただそれが何なのかを知らないので、世界にたくさんの宗教が生まれてたくさんの信仰の形ができてしまっただけだと思います。



瞑想でイーシュワラの中を生かされていること、全てを与えられていることに感謝の気持ちを向ける時、その時の私は、母でも娘でも、ヨガの先生でも会社員でもないのです。イーシュワラの中に、感謝の気持ちでくつろいでいる人は、変わることのない「私自身」ベーシックパーソンなのです。

イーシュワラを理解すればするほど、自分の中の感謝の気持ちを汲み上げて、この関わりの世界の中で生かされているという見方が、日常的な見方になってきます。理解することが自分の知識になるということです。知識はやって来て去るものではありません。理解することでずっと私の心にあり続けるものです。その知識があることで、日常の生活でも変わることのない「私自身」がずっと続くのです。私が私にくつろぐ生き方になります。

このあるがままの世界イーシュワラにくつろげる人になって初めて、ヨーガの教えがあなたの中で輝くのです。「あなたは全体の人です。世界はたった一つの意識しかないのです」という知識が明かされるのがヨーガなのです。その時、あなたは仕事やパートナーを変えなくても、お金があってもなくても、健康があっても失っても、その真実のリアリティを生きる事ができます。これがヨーガを生きる人のゴール・モークシャなのです。本来の瞑想とは、理解によってこのヨーガのゴールへと繋がっているものなのです。
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祈リましょう。。。 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

3/1 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

今のこの社会情勢の中、祈るということが増えた方も多いかもしれません。

コロナや戦争のニュースを見て私も祈ります。誰もが、痛みや悲しみより、平和や平安を望みます。
どんどん祈りましょう。祈りは行いですから、目に見えなくても何らかの結果が返ってきます。

今日のクラスは、「祈りと与える行為について」の続きでしたが、この話題はブログで書ききれないので、クラス内容の導入のお話です。

祈れるって人間だけができることですね。素晴らしい。病気がなくなってほしいです。平和になってほしいです。それは痛みや悲しみを取り除きたいという願いです。人の痛みを見ることで自分の心が痛むのです。それは相手の痛みと同時に、自分の痛みも取り除きたいのかもしれませんね。

目の前に痛みがあれば祈りましょう。でも私たちの知らないところでも、痛みはいつもあるのだと思います。私たちの豊かな生活の陰には、辛い状況の労働や貧困があったり、動物たちが殺され解体されたり、目の前に現れない痛みが、もっともっと溢れているのだと思います。

それが良いとか悪いとかいう話ではないのです。そうゆう世界を、その中を、私たちは生きているのです。ですから、祈りというのは毎日いつもあるべきものだと思います。それに気がついたなら、どんどん祈りましょう。私もそうしています。

祈れるということは、何か未知の力、結果を作り出す力があることを知っているから祈れるのです。人は「運が良い」という言葉を使いますが、もし本当に祈る意味や祈る対象を理解しているなら「運」とか「偶然」とかは言いません。感謝の思いから「与えられた」とか「運ばれた」と言いますよね。

これは疑わしいスピリチュアルな話ではなく笑、世の中の一般的な見方にとらわれずに、あるがままの世界をあるがままに見える客観的な見方ができるということです。人が成熟するというのは、その見方ができるということだそうです。与えられた、運ばれたと思えるから、謙虚な気持ちで感謝や祈りとともに生きることができるようになります。実際に私たちは全て与えられているのですよね。

最後に、今日のクラスでの話題を、ご紹介したいと思います。
「パンチャ・マハー・ヤグニャ」という毎日のお祈りです。5つの項目について、想いを向けるということを、毎日しなさいと言われます。お仏壇の前でも、信じているモノ、落ち着くものを前にして、最初は1分からでも良いのです。毎日あたりまえに続けることができる時、世界が違って見えてくるとおもいます。客観的な見方になるということです。
このお祈りは、わたし自身もカルマヨーガを始めた頃に毎日行っていました。効果抜群だと自分で実証済です。毎日祈ることで、日常でどれだけ狭い世界観しか持てていないかに気がつき始めることでしょう。

1、両親やご先祖など、肉体のルーツに想いを向けましょう。
2、先生やヨーガの教えの伝統に感謝の想いを向けましょう。
3、この世界を成り立たせているもの、大地、水、土、風、太陽、地球・・・全てに感謝。
4、他の生き物たちを想いましょう。周りの小さな生き物たちを守りましょう。
5、家族や同僚など周りの人を想い、与えられる事を、するべき事をしましょう。

毎朝の1分間から。この素敵な時間を習慣にしてみてください。
祈りが私たちの世界を素敵に編み上げますように〜ナマステー^^

お友達のカメラマンMILLAさんから頂いた素敵な写真とともに〜ありがとう!
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内側の強さ。 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

2/22(火)ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

先週は自己尊厳の話題でした。日常生活でダルマな調和の行いを、つまり、するべき事をするべき時にできる人は、自分の内側の喜びを汲み上げて自分に満足できる人となります。それが自己尊厳に繋がりますよ~という話の流れがありました。

今日のテキストは「いつでも、誰かの困難に出くわした時、どうかあなたの成熟の機会を失いませんように」という見出しから始まりました。「自己尊前のある人は内側の強さがある人です。ですから内側の強さを得るために援助の手を差し伸べる(与える行為を)練習をするのです。助けられる場所にいるので私は助けます・・・・」(ダヤーナンダジのお話より)

ちなみに、援助の手というのは単なるチャリティのことではありません。能力や知識を与えること、物理的な援助でなくとも周りのために自分の役割を全うすること、また話を聞く、寄り添うといった自分の時間を与える行為など、何の賭け引きもなく、惜しみなく手を差し伸べることだと習いました。この「与える行為」で内側の強さを練習をすることと、自己尊厳があることは、どう繋がっているのでしょう。



日常で私たちがいう「自己尊厳がある」というのは、自己肯定感が大きいとかポジティブシンキングな人のことかもしれません。その自己尊厳は、外側の状況や成功体験満足から培ったものかもしれないので、人生で大きな衝撃が起きた時、この自己尊厳は損ないやすいものかもしれませんね。

ヨーガの生き方の中で、自己尊厳がある人とは、あるがままの自分が喜びで満足の人、全体宇宙のダルマ(秩序調和)を理解した中で、調和を生きる満足がある人です。自分に安心や満足があるからこそ、与える行為ができるし、与える行為ができるから自分の内なる喜び、揺るぎない満足のある人となる、この循環を生きられる人なのです。

そのヨーガの生き方が、カルマヨーガの生き方です。時間をかけながら日々の体験(行い)を通してそのダルマ(調和)とは何かを理解します。本を読むだけでは難しいのです。カルマヨーガの中で、行いを通して自分が自分に満足することが増えてきて、そこから自分にリラックスして与える行為ができる人になる、これが自己尊厳がある人になるということですね。



私もカルマヨーガを学び始めたころは、ダルマの理解もなく、与える行為ができませんした。無意識に周りと駆け引きしている自分がいるのです。実は、最初のころはもちろん「自分は駆け引きなんてする人ではない」と思っていました。まさに無意識のことなので気が付いていなかったのです。自分に都合よく、損しないように、より多く、より早く・・・こんな考えがすでに習性となって潜んでいました。

人の根底には誰でも、得体の知れない不安感があり、生き延びなければ、認められなければ、という思いが潜んでいます。そこから現れる習性にハマって、日々周りとレスポンスしながら暮らしているのですから、それに気がつくだけでも時間がかかるのです。

カルマヨーガでは、ダルマの理解から、その習性に巻き込まれない練習をします。日々の行いを丁寧に選びながら、自分の行いを全体に捧げて、行いの結果も全体から受け取るという練習をします。習性は変えられません。その習性から自由な行いができる「自分」に気がついていく練習からスタートです。

日常生活というものは、いつものパターンでいつもの調子でイラっとして感情は揺れるし、自分の習性にハマって周りとレスポンスするだけの繰り返しです。習性から自由な私でいることは、そりゃもう大変なことなのです。まさに「内側の強さ」が必要なのです。「どうか助けてください」と祈りながら暮らしはじめます。そして、ゆっくりと習性から自由な行いができるようになる時、自分自身に内なる喜びが溢れます。自分に感動があります。

いろんな私に気が付きます。この世界では知らず知らずに、自分を取り繕うことをして生きています。その気持ちは、いつも自分の行動にも現れています。ファッション・グルメ・仕事・癒し・SNSなど、いろんな分野を利用して、自分のエゴを満たすという習性を生きてきたのです。これが悪いということではなく、習性から自由になれるというのは、人生で本当は何を求めているのかに気が付くということなのです。

カルマヨーガの実践は、考えが綺麗になること(アンタッカラナ・シュッディ)が目的です。これがヨーガの学びのファーストステップです。その綺麗な考えにヴェーダーンタの言葉が明かされます。頭で理解するのではなく、実際の日常の体験から理解するのがカルマヨーガなのです。



私はちょうど10年前にヴェーダーンタに出会っていたのですが、カルマヨーガの大切さにやっと気が付いたのは数年前です。そこからゆっくりとヨーガの生き方に取り組んできました。先生から学ぶ時間に加えて、最近は先生から学ぶ仲間と、ZOOMでディスカッションできる時間も増えてきました。

この世の中、アーサナヨーガをする人は多くても、ヨーガの生き方をしている人はとても少ないのです。私もカルマヨーガやサットサンガの場所を提供し、ともに学ぶ仲間ができると嬉しいなと思い、今まさにクラスという形で、与える行為を練習をさせて頂いてます。まだまだヨーガを伝えることも練習中ですから、聞いてくださる方がいるのは本当に有難いことです。ありがとうございます。

来週は、「人は祈りで自分自身の中に可能な限りの慈悲を呼び起こす必要があります」という後半の話題に入りますね。




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自分にOKを出すために [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

2/15(火)ヨーガを学ぶ朝60分クラスから

先週のクラスの話題は「願望」についてでした。願望は誰にでも与えられた恩恵です。でも、結果を出さなきゃ!認められないと!という抑圧があるとき、その願望を叶えるためにアダルマ(調和や秩序に反した行い)をするときは「願望が問題」となります。

アダルマな(不調和な)行いをすることは、自分自身の内側に摩擦が起こります。最初は小さな摩擦で気が付かないかもしれませんが、認められないと!という抑圧から、さらにアダルマな行いを繰り返すことで、家族との不調和、自分の体の不調和、環境との不調和、周りの人との不調和などが起こりますね。それに目をつぶっているうちに、自分で自分にOKを出せなくなってしまいます。自己尊厳を失うということです。

今日の話題は「自己尊厳」です。自分に対する尊厳、自分の存在を大切に思える気持ちと言えるのではないでしょうか。自己尊厳があるから、私たちは自分にOKが出せて、自分に満足があるのです。日常生活で願望に向かってアダルマがあるとき、ますます自己尊厳を失ってしまうし、自己尊厳がないのでダルマが選べなくなってしまう・・・。

今日のクラスでは、ある理解から、自己尊厳を見ていきました。まず、私は私自身をどんな風にとらえているのだろうか?という、私に対する認識についてです。私は「ヨガの先生です」とか、「優秀な会社員です」「裕福な成功者です」とか、この世界に現れた移り変わるものに対して、そこに自己のイメージを重ね、それを自分自身だと思っています。だからそれが失われるとき、人はうろたえてしまいますね。

本当は、私とはその移り変わる認識に気が付いている人なのです。考えや感情気分の移り変わりに気が付いている人です。体調の変化に気が付いている人です。周りの世界、お天気のこと、経済のこと、いろんなことに気が付いている人です。

本当の私は、この全てに気が付いている客観的な視点の私です。その視点の私は、願望の抑圧から自由で、何かを手に入れたり状況をかえなくても自分がそのままで満足な存在だと気が付いている人です。その私は、優しさや思いやりが溢れる私なのです。しかし、日常生活は忙しく、自分の役割や立場に沿って、周りの人たちと駆け引きしながら生きていることに気が付かずに、その役割や立場に没頭しているのを「自分だ」と認識しています。勘違いの自分にハマって暮らしています。

本来の私の視点に気が付いているとき、リラックスや満足があります。だから本当はその私でい続けたいはずなのです。目の前の状況に振り回されて上がったり下がったりの感情の私ではなく、自分らしく穏やかで優しさの溢れる私でいたいのです。

忙しいからという理由で、本当はするべき事をしないで、目先の有利なこと楽なことを優先してしまう私ではなく、周りの人や環境との調和のために、相手を思いやってするべき事をしたほうが心地よい自分がいるのを知っています。本当は社会の中で要領よく振舞って成功しようという自分ではなく、この世界の営みの中でそれぞれが自分の役割を果たして、人から奪うことよりも人に与えることが人生を豊かにすると知る私がいることも、恐らく多くの人が知っているはずです。

その世界全体の調和を想える私、客観的にあるがままの世界を見ることができる視点のある私でいて、調和のある行いを選ぶ強さがあるとき、それを自由意思と呼びます。願望の抑圧に負けている私ではなく、本当の意味で自由な行いができているそのとき、自分が自分に100%のOKを出せるのです。自己尊厳のある人です。内側の強さが溢れる人です。

自己尊厳は、自分自身で内側から汲み上げます。それを「祈り」と言います。
毎日の小さな行いの中で、どうかその想い汲み上げながら行いをしましょう!!

「どうかいつも先延ばしにしているするべき事ができますように」
「どうか体の不調を無視せず、無理のない計画を立てられますように」
「どうかいつもイラっとしていまう状況の時、自分の習性を超えて穏やかに対応でいますように」
「どうか怒りをため込まずに、誰もいない所で言葉にだして、誰も傷つけずに自分をいたわれますように」
「どうか気になるあの人が困っていないか声をかけられますように」
「どうか私を支えてくれる人に感謝の気持ちを伝えられますように」
「どうか自然や動物を傷つけていることに気が付けますように」
「社会が作り上げて理想を追い続ける自分に気がつけますよに」
「自分の中にいる、満たされたい、認められたい気持ちを認めて、その願望に圧倒される私から自由でいられますように」

私たち一人一人に、たくさんの形の祈りがあります。
来週のクラスでは、「祈る人でいるために必要な理解」について深めましょう。

この文章はサンスクリット語を省いているので、生徒さんには逆にわかりにくかったらごめんなさい。
クラスではサンスクリット語の単語と意味も覚えながら、日本語のイメージからくる勘違いを減らしていきましょう。







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願望について考えてみましょう。 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

2/8 本日のクラスから

全ての人が望むもの、追い求めるものをプルシャ・アルタと言います。人は誰でも、安心(アルタ)、喜び(カーマ)を求めています。それが様々な形の願望となります。

ですから、願望は誰にでも与えられています。お金が欲しい人、名声が欲しい人、権力が欲しい人、また知的な喜びを求めるひと、癒しや快楽を求める人、休日を求める人、アーサナヨーガを求める人、心の静寂を求める人・・・。

どんな形であれ、全てがアルタ(安心)やカーマ(喜び)と繋がっていますね。
例えばアーサナヨーガをすることに大きな喜びがある人も、それが仕事となるとき、アーサナヨーガはお金を稼ぐためとなりますし、さらに名声を得ようという自分のエゴを満たすものにもなります。それもアルタ(安全)やカーマ(安心)を求めているのです。エゴがあっても何も悪いことではないのです。

肉体をもってこの世界に現れた私たちには、みんなアルタやカーマを望む力が与えられています。その人が望む願望の形や大きさ、性質が違うだけで、誰でも望む力が与えられているのです。ある人は裕福になりたいと思うし、ある人は貧しい人を助けたいと思うのです。どんなタイプの望みでも、願望には問題がないのです。

ただ願望は、認められなきゃ、結果を出さなきゃといった「もっと、もっと」という無意識の抑圧を作りだします。そこに問題があります。その問題とは、単に執着やエゴ手放せば解決といったものではありません。その、もっともっと!の抑圧があるとき、願望を叶えるために、ダルマ(秩序や調和)に反する、つまりアダルマ(不調和)な行いに人を進ませます。そのアダルマ(不調和)な行いをしてでも、願望を叶えようとするとき、「あなたの自己尊厳が失われる」ということが問題なのです。

アダルマ(不調和)な行いをする時、私たちは内側に摩擦を感じるシステムがありモヤモヤを感じます。人には、何がダルマ(調和)で、何がアダルマ(不調和)な行いなのかを、感じとるセンスが備わっているのです。そのセンスはサーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)であり、私たちの内側にいつもいつもあるのです。

サーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)を無視するとき、私は私に落ち着くことができません。誰もが自分のアルタ(安心)やカーマ(喜び)を求めて行いをしているのに、もっともっと!と貪欲な願望があるとき、小さなアダルマ(不調和)な行いが始動されます。みんながやっているからこれくらいの事は大丈夫だろう、多少は家庭を犠牲に大丈夫だろう、多少の体の不調和には目をつぶろうとか・・・それが積み重なっていきます。

その時、サーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)があなたの内側に摩擦を作りますから、ますます自分に落ち着くことがきず、落ち着かないあなたは、さらにもっともっと!と願望を叶えようと、あの手この手で突き進みます。願望が叶わないと、さらに状況を変え、仕事を変え、パートナーを変えて突き進みますが、根本的な解決は見つからず、心はモヤモヤのまま・・・ああ辛い。これって人生で誰でも陥りやすいことなのです。

「願望を持てることは恩恵で人の喜びです。」今日のテキストの最初の言葉です。私たちにはサーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)を感じるセンスがありますから、本当は誰でも調和で自分に落ち着きたいのです。そのために大なり小なり願望を持ち行いをします。願望を持てることは喜びです。
ただ、自己尊厳がない私が願望を叶えようとするとき、アダルマ(不調和)な行いをしがちなので、その時、まさに願望が問題となり、あなたに嚙みついてきます。実際のところ、もっともっと!と繰り広げられるこの社会の中で、多くの人が自己尊厳がなく、願望に噛みつかれていることにも気づいてないのかもしれません。

カルマヨーガの生き方は、自由意思を使って、願望を叶えるために行いをします。自由意思とは、何ひとつ抑圧に妨げられていない完全な自由な行いです。この自由意思について学ぶことが、カルマヨーガの生き方でとても大切です。たくさんあるように思われたあなたの願望が、やがて一つになっていきます。そこに人の成熟があるのです。

またクラスで深めていきましょう~
来週は、自己尊厳がある人とはどんな人なのか?が話題になります。
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1年ぶりのクラスを始めました。 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

9/21~朝8:30~zoomのクラスが始まりました。

1年ぶりのヴェーダーンタクラスです。でも今回はヴェーダーンタの話題よりカルマーヨーガの実践を目的にクラスを組み立てています。

テキストは、インドのテレビ番組でヴェーダーンタの先生が52回のシリーズで語られた番組「スピリチュアルヘリテイジ」をもとにしたカレンダーになります。
カレンダー形式ですので、日ごとに話題が異なっていますが、全てがヨーガの理解と深くつながっている興味深い内容になっています。

私たちの成熟の意味とは?
人生の成功の意味とは?
人生のゴールとは何か?など
私たちが知らない視点を教えてくれるものがヨーガです。
これはどの人種にとっても、どんな状況を生きている人にも、そしてどんな信仰をもっていても、全てに通じる内容です。

多少、ヨーガで使う単語、サンスクリット語の意味を理解する必要はあります。
なぜなら、日本語を使うと、今までの価値観や経験から意味を勘違いしてしまうことがあるからです。

私たちは長い間、生きる中でたくさんの勘違い作り出してきました。

この体や考えが、まるごと私です。 
嫌な感情が沸いてくるのは私が悪いからです。
人は変えられないから、自分が変わるしかない。
もっとポジティブに生きないといけない。

ヨーがはこれら全てを「No !」と優しく教えてくれます。

あなたはすでに素晴らしい知性を与えられています。
自分を変えるのではなく、ただ勘違いを手放す必要があります。
そして世界をあるがままに正しく見ていくのです。

私たちは誰も悪い人はいません。
知らないから、ついそんな振る舞いをしてしまうだけなのです。
気づかなくても誰もが調和を求めて生きているのです。

あるがままの世界を知りましょう。
私はなぜ体や考えに縛られるのか。
私の感情はどこから現れるのでしょうか。
私のリラックスはどこにあるのでしょうか。
その答えを論理的に明かしていきます。

参加者の年齢は30~70代と幅広いです。
集まった皆さんと、どんな風にクラスが運ばれていくのかを楽しみながらお伝えいています。
ヨーガの学びを深めて、ゆくゆくはティスカッションもしていけたらと思っています。
ともに成熟の道を歩めますように…心から祈っております。

ヨーガプラサーダHPからお問い合わせください。

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