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満足のために、頑張らない。 [ヨーガについての知識]

私たちは満足がないから、頑張ります。満足が足りないから、足りよう足りようとします。
それが仕事の成功だったり、結婚して幸せな家庭を持つことだったり、ハワイに行くことだったり、人それぞれです。

自分が満足できないから、他人の力を借りて満足しようともします。例えばFacebookなどで他人からたくさん承認されることで満足をえたくなるのですね。自分に満足がないので他人の力を借りるわけです。



満足には2種類あるとヨガの知識は教えます。
「ある程度の満足」と「絶対の満足」です。

仕事や何かの成功や他人からの承認を得ることの満足は、ある程度の満足です。
仕事の成功で満足を得ても家庭で不満だらけだったり、この分野ではブイブイ言わせて満足があっても他の分野やでは自身がなくて満足が得られなかったり。自分にも満足であり、周りの状況や世界にも全てに満足というのは、なかなかうまく叶いません。なので「ある程度の満足」なのです。

しかも自分の満足のために日々努力しても、思い通りの結果が返ってくるわけではありません。私は行い手ではあるけれども、行いの結果は自分の手の内にはないのです。なのにその「ある程度の満足」を成功の意味だと思って、あの手この手で計画を練って努力をします。あるいは思い通りの結果が得られないなら、最初から願望を持たなければ良いという勘違いを持ってしまうことも。

日々どんなに努力しても叶うかどうかわからない相対的なもので、自分の成功、つまり満足を得ようというのは難しいことなのです。でもほとんどの人は、それしか満足の方法がわからないので、その道を突き進んでいます。




「絶対の満足」というのは、そもそも自分は100%満足な存在だし、周りの人や世界に対しても100%満足で調和があるということです。そのためには、今までとは違った見方、世界観で自分を見直す必要があります。

私たちはすでにウン十年と生きて、自分とはこうなのだ!という見方、生き方、ある意味哲学を持って生きてるのです。簡単に見方を変えられるものではありません。

でも「絶対の満足」を得たいと思って人は探求し始めます。そのきっかけは、仕事である程度の成功を得た後のむなしさだったり、突然の不幸や事故などで究極の状況となったり、あるいは大変な病気で人生を見直す時だったり、アーサナヨガの後の心地よさにハマったり…人には様々な運ばれ方があります。

私は自分自身に満足で、周りの人にも環境にも状況にも満足であるためには、正しく「あるがままをあるがままに見る」ということを学びます。私たちはそれを知らないのです。それは今までの間違った見方を手放し、ただあるがままの真実を知る、見る、ということです。



それは努力で自分の考えを変えることでもなく、他人や状況やこの世界を変えることでもないのです。
ですから仕事を変えたり、願望を手放したり、パートナーを手放したり(笑)する必要もないのです。

常に移り変わる「ある程度の満足」のために、歯を食いしばって他人と駆け引きしたり、競争をする、そんな努力や頑張りは必要ないのです。「絶対の満足」を学ぶ時間は、知ることで自分にリラックスが増えるので、とても楽な生き方になります。コツコツ勉強時間を重ねる、その努力は必要ですけれども(笑)この学びは駆け引きや競争がないので楽です。なにより自分が自分でいられるのです。


自分の考えで主観的にみている世界を、あるがままにちょっと客観的な「見方」をもってみませんか?ヨガの学びは、最初は自分の固定観念やクセに気づいたり、とても小さな気づきです。やがてそれが時間をかけながら、偉大な視点、世界観となって、私たちに絶対の満足をもたらせてくれるのです。
それがシャンティの本当の意味です。

8月お盆過ぎから、ZOOMで講座を開催しますね。
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インドの文化を理解したい訳 [コラム]

インドから戻ってから約4か月が過ぎました。
私の場合は引っ越もあり、12年ぶりに専業主婦となりましたが、さらにコロナの影響も重なり、長い時間を自宅で家族と過ごすことができる、ある意味で人生で貴重な毎日でした。

勉強時間も増え、今回のインドでの体験が学びとつながり深まってきました。
私の引っ越しで、しばらくヴェーダーンタから離れてしまった方たちから、また何か(講座や勉強会)やらないの?とのお声もいただき、学んだことをまた少しずつ言葉で出していけたら嬉しいです。



インドblogにもちらっと載せましたが、インドといっても今では様々な文化が入り混じっています。
でも未だに脈々と残る文化と教えがあり、私はそれを受け取りたいと学んでいるのです。

なぜならそれは、何一つ矛盾のない世界観(宇宙観)を持っていて、それに基づいて人々の暮らしがありその奥に教えを持っているからです。この教えはなにもインド人のためのモノではなく、人類みんなのためのモノです。

それは文化という「形」と、教えという「中身」の両方がしっかりと繋がっている世界観です。
人生の生きる意味が、日々の暮らし方として、言葉として、態度として、お金の使い方として、現代もその「形」が残っているのです。

日本での暮らしは、七五三や成人式、結婚式、お葬式など、形があっても、その源となる教えを理解するのは難しいですね。世界のどこでも、それぞれの場所で「形」が残っていて、その「中身」である源の教えが整った知識として現代まで残っているのは、世界中でインドだけなのだそうです。



私たちは物資に豊かな国に生まれていながら、働くこと、生きることの意味が見えにくいものです。でもこのヨガといういっけん健康体操のような(笑) 瞑想といういっけん宗教チックな(笑)、そんな「形」がいま世界中で試されて、生きにくい現代の私たちに恩恵与えてくれているのは事実です。

単なる健康体操なら、他にもたくさんあります。でもヨガにはその「中身」として、私たちが知るべき人生の最終目的へと繋がっています。私たちはそれをスピリチュアルと呼びます。いっけん怪しい響きです。たしかにスピリチュアルという言葉に、宗教や哲学、自己啓発なんかも含まれますから。

でもヨガの「中身」である源の教えは、いわゆる今どきのスピリチュアルな種類の話ではありません。
インドの一部には、未だにその教えの伝統と方法論が知識として確立されていて、先生から生徒へと現代にも教えが繋がっているのです。ですから、教えと共に、毎日の暮らし方、食べ方、日々の祈りや儀式、季節の行事、暮らしの態度、仕事や結婚の意味、生きる目的までが矛盾なく繋がって、祖父母や両親から子供たちへと伝わっているのです。



むしろその地球上のその整った世界観「形」と「中身」を破壊してきたのが、いわゆる宗教という作られた組織なのです。たくさんの侵略でインドの人々もたくさん改宗させられたようです。
ヨガの源の知識はいわゆる宗教ではないので、伝統と伝える先生たちにも組織がありません。誰が一番偉い人だとか、お金をいくら払わないといけないとか、この修行をしないといけないとか、そんなものがないのです。(インドには怪しい教えがいっぱいありますから、気を付けてくださいね!)


教えと生きる目的が繋がっているので、人々は人生の最終ステージとしてこの教えだけを学ぶ生き方に入ることもできるのです。今でも自分の財産や私物を全て手放し、お金を稼ぐことなどの社会活動から離れて、学ぶことや教えることに没頭しても、それを人々が支えて教えを授かる文化がこの現代に存在しているのです。

2016年ヨガが世界無形文化遺産になったのは、これらの「形」と「中身」そしてその背景の全てが、今も残っているからです。日本人の私たちがその世界観を全て理解するのは容易なことではありません。でも知れば知るほどその見事さや美しさに魅了されてしまいます。「形」や「中身」を知れば知るほど、人生で叶えなければならないことが何かが見えてくるのです。それが本来のヨガの教え=知識なのです。(つまりヨガ哲学ではないのです)

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ガンジーの生まれた家にて







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