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サムシンググレート [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

3/22 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

今回のクラスで触れた話題の一つです。

何か物があるとき、たとえばiPhoneがあるとか、家があるというとき、必ず作者がいるということが理解できます。当然その人は、それを作るための知識を持っているということもわかります。

ここに一輪の花があるというとき、1匹の虫がるとき、山がある、石ころがあるというとき、その作者は誰でしょうか。私たちは、その作者を想うこともしないのですよね。「自然だから」という言葉で済ませてしまいます。

花も虫も、山も石ころも、確かにあるのですから、確かに作者がいるはずです。そしてその人もその知識を持っているから作品を作れたはずです。このお話を最初に聞いたとき、はっとしたのを思い出します。

人間もこの世界の中の作品です。人間はDNAを解析しましたが、DNAが発見できると言うことは、それをつくった作者がいるということですよね。科学者はその作者のことを「サムシンググレート」と呼んでいますね。


サムシンググレートのことを、ヨーガでイーシュワラと呼びます。この時間と空間をはじめ、世界全ての作者です。時空を作ったということは時空の中にいないはずです。では他の時空とか、お隣の時空ってあるのかしら?他の時空からこの時空は作れないはずです。

ヨーガでは、ではこの時空を作った作者がイーシュワラで、それは知識そのものであり、イーシュワラが自ら作品となって現れていると言われます。みずからが時空として現れ、世界の全てを現したのです。作者と作品が離れていないのがこの世界であるというこが理解できるとき、それは科学とも矛盾がないのです。一般的に私たちはそれを「自然」と呼んでいますよね。

シンプルにこの世界のあるがままを理解するための話題です。ですから、ヴェーダーンタの明かす宇宙観は、ヨーガの話題にありがちな、何か不思議体験とか超常現象などは一切扱いません(笑)



この世界があるということに想いを向けるだけでも、有難い気持ちになります。世界を知るというのは、あるがままの生きた宇宙の作者に想いを向けるということです。

この日、クラスのテキストの本文は「どの形も原子に戻すことができます。そして原子は素粒子に戻すことができます。素粒子までさかのぼるとすでに形がありません。ですから実際には、どの形にも形がないのです。ここに信じる話題は含まれません。リアリティが話題なのです」ここから始まりました。ちょっとマニアックな話題です。

でも信じる話題ではなく、この世界を知るためにリアリティを理解する話題です。あるがままを理解する客観的な見方が、この世界を安心な場所として生きるために必要な理解する話題ですというのが本日の話題でした。では今日はこの辺で。ありがとうございました。

京都に来ています。「タルカ」さんで南インドのミールスを頂きました。ほんと美味しかった。

京都には1週間ほど滞在するので、3月29日火クラスはお休みです。




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考えから自由な私の発見 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

3/15 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

今日の話題は「瞑想する人であるために、外側にいる人を、外側に置いておきなさい」でした。

ヨーガのシャバーサナ中に、考え事にハマってしまうことはありませんか?あの最高に心地よい、贅沢なひと時なのに、日常の考え事にハマって抜け出せないなんて…これはこれは、ご愁傷様です。
同じように、夜やっとお布団で眠れるのに、考え事がぐるぐる…。非日常を求めて出かけたはずの旅先でも考え事がぐるぐる…。これがまさに「外側にいる人を、外側に置けず、内側に置いている」ということですね。

クラスでテキストに使っているスワミダヤーナンダジのお話は実に面白いです。
「山を想うとき、私自身は平和です。山が私に平和をくれたわけではありません。私が私に平和を作り出したのです。山々に関して、こうあってほしいという望みを持っていない私に気づいていますから。山は決して私を満たされていない人にはしませんし、何かに足りていないという私をもたらしません。こういった状況が、私が好きになる状況です。だから山が好きなのです。私は満たされない足りてない自分を見なくて済むのですから」

私たちは、他の誰かを見た時に、私は何か足りてない人だと思います。そしてどうして彼らは私の思う通りに振舞ってくれないのでしょうと…。もう少し親切に、もう少し同情をもって、もう少し親しみをもってほしいと思います。どのような人を見ても、いつも私は客観的に見ることができず、満たされない人として自分を知ります。そういった人をそのままにして置いておくことができずに、考えは動き出します。自動的な考え事はさらに満たされない自分を思い出させます。もう少し〇〇だったら…、もっと収入の良い仕事だったら…、もう少しまともな親の元に生まれていたら…といつもの考え事がぐるぐる、これもご愁傷さまという感じですが、ありがちなことです。



今日のクラスでは、カルマヨーガで最初に学ぶべき大切なことを、改めて復習しました。
私たち個人には、そもそも緊張がありません。赤ちゃんの時は緊張がなかったはずです。基本的に人は目の前のことを認識している人、気が付いている人です。そこに考えが過去の経験をもとに主観的な見方をすることで緊張や心の摩擦がおこり、それが欲求や願望に変わります。ここまではヨーガ哲学などでもよく言われることです。

ダヤーナンダジの解説は続きます「他の人々がこうあるべきだと思うことは、何も悪いことではありません。何も間違っていません。しかしそこで、私ができる事はします。そして私はどうしようもない事がわかります。どうしようもないままで、私は留まりません。それが変わってゆくのを祈り、彼らがあるがままでいる自由を与えます。ですから私は私自身といて平和です。違いますか?」

ここにヨーガの理解があります。人には誰でも過去の背景があって、そう振舞わざるを得えないのです。そして同じように私にも過去の背景があって、そう振舞わざるを得ないのです。まずカルマヨーガの最初の段階では、この理解とともに相手がそう振舞うことを許し、自由を与えます。自由を与えることができればできるほど、私が自由でいられます。その自由な私があって初めて、祈り・瞑想といった行いを始める人でいられます。さらにこの祈り・瞑想ができる、ある程度落ち着いた理解があることで、ヨーガの知識を学べる人となるのです。

単に考えを変えようとしても、人はさほど変わりません。何かのセミナーを受けてみて、その刺激でしばらくは生き生きする日々が続くことはあります。その時はテキパキ日常をこなし充実感を得られても、また誰かにでくわすときに「満たされない私」と、それにまつわる「考え事」がセットで現れます。私たちは悲しいことに習性を生きているだけなのです。

その習性を超えるとき、祈りや瞑想が必要ですと学びます。でも考え事にハマりやすい人にとっては、祈りや瞑想の時間こそが、その考えに巻き込まれている時間となってしまいます。このジレンマを乗り越えてヨーガという生き方が始まります。

「外側にいる人を、外側に置いておきなさい」相手にも自分自身にも自由を与えることはとても難しのです。学ぶための時間と、ともに学ぶ仲間が必要です。仲間とのディスカッションでなかなか習性を超えられない無力な自分を明かすことも最初はプライドが邪魔します。これも習性です。心を開いてあるがままの自分を語れるときの、喜びや涙があります。私も昔よく泣いてたなとカルマヨーガを学びだしたころを思い出します ^_^



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私にくつろぐ瞑想 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

3/8 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

今日の話題は「瞑想」についてでした。
今、世の中で一般的に瞑想というと、リラクゼーションやコンセントレーションのこと、つまりリラックスすることや精神集中することが目的のようです。慌ただしい思考から自由になりたいからです。

思考は一日中途切れることがないのです。何か一つのことを見て、そしてまた何かを見て・・・いつまでもいつまでも、機械的な流れで考えが続きます。それが一巡りすると、思考はやがてお馴染みの悲しい考えに戻ってきます。人は、その悲しみからの気晴らしを探し出します。いっとき気分転換しリラックスしたいのです。でもそのリラックスが終わると再び思考の流れは動き出し、大きな循環の中をぐるぐるしながらまたお馴染みの悲しみにやってくる、そしてまた気分転換・・・。

気分転換のために、瞑想を道具にして、いつものお馴染みの思考を破壊して、本来の自分に気づいていることで、気分をスッキリさせるのです。現代はこういったものを瞑想とかマインドフルネスとか言っているようです。確かに効果はあると思います。

私たちはいつも、社会の人間関係の中で役割を体験しています。家庭では母であり、実家では娘、会社の中ではヨガの先生とか会社員とか・・・。役割や立場があり、利害関係や競争、考えの違い、意見の対立などもありますから、常にその関係性の中で緊張があり、自分の役割を上手くこなそうとしています。ですから、その緊張が起こるお馴染みの思考を断ち切って、関わりの世界の「役割観念」を手放してリラックスしたいのですよね。



ヨーガの生き方で瞑想は必須です。上記と同じように思考の連鎖を破壊する練習もある程度必要ですが、その先があるのがヨーガの瞑想です。瞑想とは「想う」という行いなのです。お誕生日に、その人のことを想い、その関係に特別にハイライトするように、瞑想もちょっと特別にハイライトして「想う」対象があるのです。

例えば七五三のお祝や、成人のお祝などの習慣が今も残っているのは、人間が昔から神様に感謝をささげる儀式をしていた、つまり神様を「想う」対象としてハイライトしていたということです。

人間とは、恐らくどんな文化や民族の人も、祈りの儀式を持っていると考えられます。今ではそれは形だけが残り、神が何なのかという教えは失われてしまっているのですが。

ヨーガという生き方があるヴェーダの文化は、その儀式の形と教えの中身が今も残っている、地球上で唯一の文化と言われます。その瞑想とはイーシュワラを「想う」こと。ヨーガの瞑想は、その思う対象を理解してはじめて、できるものなのです。

ヨガスートラには、この教えの部分は書かれていません。瞑想のテクニックや体験しか学べません。ヨガスートラのゴール・サマディは、単なるシャーンティの体験で、悟りではないからです。(サマディは主体と客体の区別がない心地よい体験をするのですね)



瞑想を始めるとき、イーシュワラとは何かを、言葉を使って学びます。世界の全てがイーシュワラです。全てが超知的な秩序法則の中で、人間からバクテリアまで役割を担って、お互いが捧げあって生きていることを知ることから、理解が始まります。そのことすら見えないのが私たちなので、最初の段階では、学んだその世界観を繰り返し思い出すことが瞑想になりいます。

イーシュワラを想う、つまり理解することでイーシュワラが知識になることが目的なのです。それは「想う」対象として確かにいつもあるものだからです。世界の全てがイーシュワラですから、それは私たちの心の中にもあるのです。「人を傷つけてはいけない」ということは誰もが知っています。いわゆる良心みたいなもの、これも知識として人の心に現れています。これもイーシュワラの現れた知識です。だから、私たちはそれは「想う」事ができるのです。いま誰もが、この世界の平和を祈る事ができますよね。

私たちが気がついていなくても、生きている以上イーシュワラとの関係は、途切れることなくいつもあります。だから私たちはイーシュワラを知らなくても感謝の気持ちというものが湧いてくるのですよね。どんな宗教の神であろうと、突き詰めていくと想う対象はたった一つのイーシュワラしかないのです。

宗教を持たない日本人でも、年に1度くらいは神社にいって、その漠然としたイメージの「神様」に感謝の気持ちを捧げますよ。その気持ちは、どの時代のどの人種でも同じなのですよね。感謝の想いを向ける対象は確かに存在するのです。ただそれが何なのかを知らないので、世界にたくさんの宗教が生まれてたくさんの信仰の形ができてしまっただけだと思います。



瞑想でイーシュワラの中を生かされていること、全てを与えられていることに感謝の気持ちを向ける時、その時の私は、母でも娘でも、ヨガの先生でも会社員でもないのです。イーシュワラの中に、感謝の気持ちでくつろいでいる人は、変わることのない「私自身」ベーシックパーソンなのです。

イーシュワラを理解すればするほど、自分の中の感謝の気持ちを汲み上げて、この関わりの世界の中で生かされているという見方が、日常的な見方になってきます。理解することが自分の知識になるということです。知識はやって来て去るものではありません。理解することでずっと私の心にあり続けるものです。その知識があることで、日常の生活でも変わることのない「私自身」がずっと続くのです。私が私にくつろぐ生き方になります。

このあるがままの世界イーシュワラにくつろげる人になって初めて、ヨーガの教えがあなたの中で輝くのです。「あなたは全体の人です。世界はたった一つの意識しかないのです」という知識が明かされるのがヨーガなのです。その時、あなたは仕事やパートナーを変えなくても、お金があってもなくても、健康があっても失っても、その真実のリアリティを生きる事ができます。これがヨーガを生きる人のゴール・モークシャなのです。本来の瞑想とは、理解によってこのヨーガのゴールへと繋がっているものなのです。
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祈リましょう。。。 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

3/1 ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

今のこの社会情勢の中、祈るということが増えた方も多いかもしれません。

コロナや戦争のニュースを見て私も祈ります。誰もが、痛みや悲しみより、平和や平安を望みます。
どんどん祈りましょう。祈りは行いですから、目に見えなくても何らかの結果が返ってきます。

今日のクラスは、「祈りと与える行為について」の続きでしたが、この話題はブログで書ききれないので、クラス内容の導入のお話です。

祈れるって人間だけができることですね。素晴らしい。病気がなくなってほしいです。平和になってほしいです。それは痛みや悲しみを取り除きたいという願いです。人の痛みを見ることで自分の心が痛むのです。それは相手の痛みと同時に、自分の痛みも取り除きたいのかもしれませんね。

目の前に痛みがあれば祈りましょう。でも私たちの知らないところでも、痛みはいつもあるのだと思います。私たちの豊かな生活の陰には、辛い状況の労働や貧困があったり、動物たちが殺され解体されたり、目の前に現れない痛みが、もっともっと溢れているのだと思います。

それが良いとか悪いとかいう話ではないのです。そうゆう世界を、その中を、私たちは生きているのです。ですから、祈りというのは毎日いつもあるべきものだと思います。それに気がついたなら、どんどん祈りましょう。私もそうしています。

祈れるということは、何か未知の力、結果を作り出す力があることを知っているから祈れるのです。人は「運が良い」という言葉を使いますが、もし本当に祈る意味や祈る対象を理解しているなら「運」とか「偶然」とかは言いません。感謝の思いから「与えられた」とか「運ばれた」と言いますよね。

これは疑わしいスピリチュアルな話ではなく笑、世の中の一般的な見方にとらわれずに、あるがままの世界をあるがままに見える客観的な見方ができるということです。人が成熟するというのは、その見方ができるということだそうです。与えられた、運ばれたと思えるから、謙虚な気持ちで感謝や祈りとともに生きることができるようになります。実際に私たちは全て与えられているのですよね。

最後に、今日のクラスでの話題を、ご紹介したいと思います。
「パンチャ・マハー・ヤグニャ」という毎日のお祈りです。5つの項目について、想いを向けるということを、毎日しなさいと言われます。お仏壇の前でも、信じているモノ、落ち着くものを前にして、最初は1分からでも良いのです。毎日あたりまえに続けることができる時、世界が違って見えてくるとおもいます。客観的な見方になるということです。
このお祈りは、わたし自身もカルマヨーガを始めた頃に毎日行っていました。効果抜群だと自分で実証済です。毎日祈ることで、日常でどれだけ狭い世界観しか持てていないかに気がつき始めることでしょう。

1、両親やご先祖など、肉体のルーツに想いを向けましょう。
2、先生やヨーガの教えの伝統に感謝の想いを向けましょう。
3、この世界を成り立たせているもの、大地、水、土、風、太陽、地球・・・全てに感謝。
4、他の生き物たちを想いましょう。周りの小さな生き物たちを守りましょう。
5、家族や同僚など周りの人を想い、与えられる事を、するべき事をしましょう。

毎朝の1分間から。この素敵な時間を習慣にしてみてください。
祈りが私たちの世界を素敵に編み上げますように〜ナマステー^^

お友達のカメラマンMILLAさんから頂いた素敵な写真とともに〜ありがとう!
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