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内側の強さ。 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

2/22(火)ヨーガを学ぶ朝の60分クラスより

先週は自己尊厳の話題でした。日常生活でダルマな調和の行いを、つまり、するべき事をするべき時にできる人は、自分の内側の喜びを汲み上げて自分に満足できる人となります。それが自己尊厳に繋がりますよ~という話の流れがありました。

今日のテキストは「いつでも、誰かの困難に出くわした時、どうかあなたの成熟の機会を失いませんように」という見出しから始まりました。「自己尊前のある人は内側の強さがある人です。ですから内側の強さを得るために援助の手を差し伸べる(与える行為を)練習をするのです。助けられる場所にいるので私は助けます・・・・」(ダヤーナンダジのお話より)

ちなみに、援助の手というのは単なるチャリティのことではありません。能力や知識を与えること、物理的な援助でなくとも周りのために自分の役割を全うすること、また話を聞く、寄り添うといった自分の時間を与える行為など、何の賭け引きもなく、惜しみなく手を差し伸べることだと習いました。この「与える行為」で内側の強さを練習をすることと、自己尊厳があることは、どう繋がっているのでしょう。



日常で私たちがいう「自己尊厳がある」というのは、自己肯定感が大きいとかポジティブシンキングな人のことかもしれません。その自己尊厳は、外側の状況や成功体験満足から培ったものかもしれないので、人生で大きな衝撃が起きた時、この自己尊厳は損ないやすいものかもしれませんね。

ヨーガの生き方の中で、自己尊厳がある人とは、あるがままの自分が喜びで満足の人、全体宇宙のダルマ(秩序調和)を理解した中で、調和を生きる満足がある人です。自分に安心や満足があるからこそ、与える行為ができるし、与える行為ができるから自分の内なる喜び、揺るぎない満足のある人となる、この循環を生きられる人なのです。

そのヨーガの生き方が、カルマヨーガの生き方です。時間をかけながら日々の体験(行い)を通してそのダルマ(調和)とは何かを理解します。本を読むだけでは難しいのです。カルマヨーガの中で、行いを通して自分が自分に満足することが増えてきて、そこから自分にリラックスして与える行為ができる人になる、これが自己尊厳がある人になるということですね。



私もカルマヨーガを学び始めたころは、ダルマの理解もなく、与える行為ができませんした。無意識に周りと駆け引きしている自分がいるのです。実は、最初のころはもちろん「自分は駆け引きなんてする人ではない」と思っていました。まさに無意識のことなので気が付いていなかったのです。自分に都合よく、損しないように、より多く、より早く・・・こんな考えがすでに習性となって潜んでいました。

人の根底には誰でも、得体の知れない不安感があり、生き延びなければ、認められなければ、という思いが潜んでいます。そこから現れる習性にハマって、日々周りとレスポンスしながら暮らしているのですから、それに気がつくだけでも時間がかかるのです。

カルマヨーガでは、ダルマの理解から、その習性に巻き込まれない練習をします。日々の行いを丁寧に選びながら、自分の行いを全体に捧げて、行いの結果も全体から受け取るという練習をします。習性は変えられません。その習性から自由な行いができる「自分」に気がついていく練習からスタートです。

日常生活というものは、いつものパターンでいつもの調子でイラっとして感情は揺れるし、自分の習性にハマって周りとレスポンスするだけの繰り返しです。習性から自由な私でいることは、そりゃもう大変なことなのです。まさに「内側の強さ」が必要なのです。「どうか助けてください」と祈りながら暮らしはじめます。そして、ゆっくりと習性から自由な行いができるようになる時、自分自身に内なる喜びが溢れます。自分に感動があります。

いろんな私に気が付きます。この世界では知らず知らずに、自分を取り繕うことをして生きています。その気持ちは、いつも自分の行動にも現れています。ファッション・グルメ・仕事・癒し・SNSなど、いろんな分野を利用して、自分のエゴを満たすという習性を生きてきたのです。これが悪いということではなく、習性から自由になれるというのは、人生で本当は何を求めているのかに気が付くということなのです。

カルマヨーガの実践は、考えが綺麗になること(アンタッカラナ・シュッディ)が目的です。これがヨーガの学びのファーストステップです。その綺麗な考えにヴェーダーンタの言葉が明かされます。頭で理解するのではなく、実際の日常の体験から理解するのがカルマヨーガなのです。



私はちょうど10年前にヴェーダーンタに出会っていたのですが、カルマヨーガの大切さにやっと気が付いたのは数年前です。そこからゆっくりとヨーガの生き方に取り組んできました。先生から学ぶ時間に加えて、最近は先生から学ぶ仲間と、ZOOMでディスカッションできる時間も増えてきました。

この世の中、アーサナヨーガをする人は多くても、ヨーガの生き方をしている人はとても少ないのです。私もカルマヨーガやサットサンガの場所を提供し、ともに学ぶ仲間ができると嬉しいなと思い、今まさにクラスという形で、与える行為を練習をさせて頂いてます。まだまだヨーガを伝えることも練習中ですから、聞いてくださる方がいるのは本当に有難いことです。ありがとうございます。

来週は、「人は祈りで自分自身の中に可能な限りの慈悲を呼び起こす必要があります」という後半の話題に入りますね。




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自分にOKを出すために [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

2/15(火)ヨーガを学ぶ朝60分クラスから

先週のクラスの話題は「願望」についてでした。願望は誰にでも与えられた恩恵です。でも、結果を出さなきゃ!認められないと!という抑圧があるとき、その願望を叶えるためにアダルマ(調和や秩序に反した行い)をするときは「願望が問題」となります。

アダルマな(不調和な)行いをすることは、自分自身の内側に摩擦が起こります。最初は小さな摩擦で気が付かないかもしれませんが、認められないと!という抑圧から、さらにアダルマな行いを繰り返すことで、家族との不調和、自分の体の不調和、環境との不調和、周りの人との不調和などが起こりますね。それに目をつぶっているうちに、自分で自分にOKを出せなくなってしまいます。自己尊厳を失うということです。

今日の話題は「自己尊厳」です。自分に対する尊厳、自分の存在を大切に思える気持ちと言えるのではないでしょうか。自己尊厳があるから、私たちは自分にOKが出せて、自分に満足があるのです。日常生活で願望に向かってアダルマがあるとき、ますます自己尊厳を失ってしまうし、自己尊厳がないのでダルマが選べなくなってしまう・・・。

今日のクラスでは、ある理解から、自己尊厳を見ていきました。まず、私は私自身をどんな風にとらえているのだろうか?という、私に対する認識についてです。私は「ヨガの先生です」とか、「優秀な会社員です」「裕福な成功者です」とか、この世界に現れた移り変わるものに対して、そこに自己のイメージを重ね、それを自分自身だと思っています。だからそれが失われるとき、人はうろたえてしまいますね。

本当は、私とはその移り変わる認識に気が付いている人なのです。考えや感情気分の移り変わりに気が付いている人です。体調の変化に気が付いている人です。周りの世界、お天気のこと、経済のこと、いろんなことに気が付いている人です。

本当の私は、この全てに気が付いている客観的な視点の私です。その視点の私は、願望の抑圧から自由で、何かを手に入れたり状況をかえなくても自分がそのままで満足な存在だと気が付いている人です。その私は、優しさや思いやりが溢れる私なのです。しかし、日常生活は忙しく、自分の役割や立場に沿って、周りの人たちと駆け引きしながら生きていることに気が付かずに、その役割や立場に没頭しているのを「自分だ」と認識しています。勘違いの自分にハマって暮らしています。

本来の私の視点に気が付いているとき、リラックスや満足があります。だから本当はその私でい続けたいはずなのです。目の前の状況に振り回されて上がったり下がったりの感情の私ではなく、自分らしく穏やかで優しさの溢れる私でいたいのです。

忙しいからという理由で、本当はするべき事をしないで、目先の有利なこと楽なことを優先してしまう私ではなく、周りの人や環境との調和のために、相手を思いやってするべき事をしたほうが心地よい自分がいるのを知っています。本当は社会の中で要領よく振舞って成功しようという自分ではなく、この世界の営みの中でそれぞれが自分の役割を果たして、人から奪うことよりも人に与えることが人生を豊かにすると知る私がいることも、恐らく多くの人が知っているはずです。

その世界全体の調和を想える私、客観的にあるがままの世界を見ることができる視点のある私でいて、調和のある行いを選ぶ強さがあるとき、それを自由意思と呼びます。願望の抑圧に負けている私ではなく、本当の意味で自由な行いができているそのとき、自分が自分に100%のOKを出せるのです。自己尊厳のある人です。内側の強さが溢れる人です。

自己尊厳は、自分自身で内側から汲み上げます。それを「祈り」と言います。
毎日の小さな行いの中で、どうかその想い汲み上げながら行いをしましょう!!

「どうかいつも先延ばしにしているするべき事ができますように」
「どうか体の不調を無視せず、無理のない計画を立てられますように」
「どうかいつもイラっとしていまう状況の時、自分の習性を超えて穏やかに対応でいますように」
「どうか怒りをため込まずに、誰もいない所で言葉にだして、誰も傷つけずに自分をいたわれますように」
「どうか気になるあの人が困っていないか声をかけられますように」
「どうか私を支えてくれる人に感謝の気持ちを伝えられますように」
「どうか自然や動物を傷つけていることに気が付けますように」
「社会が作り上げて理想を追い続ける自分に気がつけますよに」
「自分の中にいる、満たされたい、認められたい気持ちを認めて、その願望に圧倒される私から自由でいられますように」

私たち一人一人に、たくさんの形の祈りがあります。
来週のクラスでは、「祈る人でいるために必要な理解」について深めましょう。

この文章はサンスクリット語を省いているので、生徒さんには逆にわかりにくかったらごめんなさい。
クラスではサンスクリット語の単語と意味も覚えながら、日本語のイメージからくる勘違いを減らしていきましょう。







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願望について考えてみましょう。 [ヨーガを学ぶ朝の60分クラス]

2/8 本日のクラスから

全ての人が望むもの、追い求めるものをプルシャ・アルタと言います。人は誰でも、安心(アルタ)、喜び(カーマ)を求めています。それが様々な形の願望となります。

ですから、願望は誰にでも与えられています。お金が欲しい人、名声が欲しい人、権力が欲しい人、また知的な喜びを求めるひと、癒しや快楽を求める人、休日を求める人、アーサナヨーガを求める人、心の静寂を求める人・・・。

どんな形であれ、全てがアルタ(安心)やカーマ(喜び)と繋がっていますね。
例えばアーサナヨーガをすることに大きな喜びがある人も、それが仕事となるとき、アーサナヨーガはお金を稼ぐためとなりますし、さらに名声を得ようという自分のエゴを満たすものにもなります。それもアルタ(安全)やカーマ(安心)を求めているのです。エゴがあっても何も悪いことではないのです。

肉体をもってこの世界に現れた私たちには、みんなアルタやカーマを望む力が与えられています。その人が望む願望の形や大きさ、性質が違うだけで、誰でも望む力が与えられているのです。ある人は裕福になりたいと思うし、ある人は貧しい人を助けたいと思うのです。どんなタイプの望みでも、願望には問題がないのです。

ただ願望は、認められなきゃ、結果を出さなきゃといった「もっと、もっと」という無意識の抑圧を作りだします。そこに問題があります。その問題とは、単に執着やエゴ手放せば解決といったものではありません。その、もっともっと!の抑圧があるとき、願望を叶えるために、ダルマ(秩序や調和)に反する、つまりアダルマ(不調和)な行いに人を進ませます。そのアダルマ(不調和)な行いをしてでも、願望を叶えようとするとき、「あなたの自己尊厳が失われる」ということが問題なのです。

アダルマ(不調和)な行いをする時、私たちは内側に摩擦を感じるシステムがありモヤモヤを感じます。人には、何がダルマ(調和)で、何がアダルマ(不調和)な行いなのかを、感じとるセンスが備わっているのです。そのセンスはサーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)であり、私たちの内側にいつもいつもあるのです。

サーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)を無視するとき、私は私に落ち着くことができません。誰もが自分のアルタ(安心)やカーマ(喜び)を求めて行いをしているのに、もっともっと!と貪欲な願望があるとき、小さなアダルマ(不調和)な行いが始動されます。みんながやっているからこれくらいの事は大丈夫だろう、多少は家庭を犠牲に大丈夫だろう、多少の体の不調和には目をつぶろうとか・・・それが積み重なっていきます。

その時、サーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)があなたの内側に摩擦を作りますから、ますます自分に落ち着くことがきず、落ち着かないあなたは、さらにもっともっと!と願望を叶えようと、あの手この手で突き進みます。願望が叶わないと、さらに状況を変え、仕事を変え、パートナーを変えて突き進みますが、根本的な解決は見つからず、心はモヤモヤのまま・・・ああ辛い。これって人生で誰でも陥りやすいことなのです。

「願望を持てることは恩恵で人の喜びです。」今日のテキストの最初の言葉です。私たちにはサーマンニャダルマ(普遍の秩序・調和)を感じるセンスがありますから、本当は誰でも調和で自分に落ち着きたいのです。そのために大なり小なり願望を持ち行いをします。願望を持てることは喜びです。
ただ、自己尊厳がない私が願望を叶えようとするとき、アダルマ(不調和)な行いをしがちなので、その時、まさに願望が問題となり、あなたに嚙みついてきます。実際のところ、もっともっと!と繰り広げられるこの社会の中で、多くの人が自己尊厳がなく、願望に噛みつかれていることにも気づいてないのかもしれません。

カルマヨーガの生き方は、自由意思を使って、願望を叶えるために行いをします。自由意思とは、何ひとつ抑圧に妨げられていない完全な自由な行いです。この自由意思について学ぶことが、カルマヨーガの生き方でとても大切です。たくさんあるように思われたあなたの願望が、やがて一つになっていきます。そこに人の成熟があるのです。

またクラスで深めていきましょう~
来週は、自己尊厳がある人とはどんな人なのか?が話題になります。
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