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判断を手放す [思うこと]

4日間ほど東京にいたので、久しぶりに生徒として一般のヨガクラスを受けてきました。

以前はクラスを受講すると、同業者として頭の中が思考でいっぱいになっていました。

どうしてもその先生に対して無意識に「良い・悪い」の判断をしてしまうのです。

今はそれがないので、どの先生のクラスも心から楽しむことができました。


私もよく使いますが、ヨガクラスでは先生が「判断を手放して」と言います。

アーサナが「できない」とか「体が硬いな」とか、自分自身に「良い・悪い」の判断をしてしまうことがあります。

「できない」も「硬い」も何も問題ないのですが、それに残念な気持ちがのっかてくると「悪い」と無意識に判断していることになります。

単にできないことを客観的に楽しめれば良いのですけれども。


ヨガの時間に限らず、日常生活で自分に意識的になってみると

自分や他人、お天気や環境、目の前に起こることなどたくさん判断しています。

その思考のクセは簡単に手放せるものではありません。

まずは無意識に起こる「自分の思考」に気づいていくことも大切です。


ヨガのヴェーダの世界観では、この世界は全てダルマ(宇宙の秩序・法則)なのだと言います。

この世界では人やモノ、動植物や環境すべてが関わり合ってダルマのもとに存在しています。

地球一つみても、まるで地球が一つの生命体のように、全てが関わり合って生きているのだと。

そして人が生まれてきたのも、前世を含む過去の行いの結果が実ったものだといいます。

そんな視点で世界を見ていくと、この世界で良い悪いの判断なんて意味があるのかと思えることさえあります。

とはいえ現実は、物事や目の前のわが子にイラッとすることもあるわけですけれども。

けれどもヨガの世界観、ヴェーダンタを勉強していくと、この世界は何も変わっていないのに、自分の見方が変わっていることに気づきます。それが勉強の楽しさでもあります。

見方が変わることで、自然と「判断を手放す」ことができて、生きることが楽になるのだと思います。





自己受容とは [思うこと]

自己受容とは、一般的には「あるがままの自分を受け入れる」という意味になるでしょうか。

先日、友人からのメールに「今まで人を羨ましく思っていて、そう思う自分が嫌だったけれども、今はそんな自分を解放していくことが大事なんだと思う」とありました。

人を羨ましく思い、自分を嫌になるということは過去にたくさん経験してるので、メールを読んだときちょっとウルッときました。

「ヨガとは自己受容です」と学んだ時、最初は文字通りどんな自分をも受け入れることなのだと思いました。

ヴェーダンタを学んで、その意味は「正しく自分と世界を知ること」なのだと思いました。



私たちの考えや感情は100%「過去の経験」をもとに「今」を見ています。

過去の経験の積み重ねから、怖さや怒り嫉妬などの嫌な感情が出てきて、その状況にプログラムのように反応しているのです。

そして人を羨ましく思うというのは、自己意識が高いということ。

動物は人と自分を比べることができません。比べるのは人間だけです。

でもその高い自己意識があるので、「どう生きるか」を選ぶことができます。



そもそもヴェーダンタでは私たち人間は、自然の力、大きな宇宙の意識の現れだといいます。

過去の経験から他人と比べ、様々な感情が起こるのも自然なこと、プログラムなのです。

この視点を持つと、自分に対して良い悪いの判断を少し手放すことができました。

嫌な気持ちはさっさと手放し、今どう行動するのかを選べば良いだけのような気がします。

このヴェーディックな世界観を知っていくことが、「自己受容」なんです。


ぴーすパワーヨガスタジオにて [yogaクラス]

江別市「ぴーすパワーヨガスタジオ」2周年記念イベントで、座学とアーサナ2時間のクラスをさせていただきました。

初めてヨガやヴェーダの話題を聞く方に、何からお伝えしたらよいのか。まずヨガの世界観をイメージしたイラストをご用意しました。今回初めての試み。

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イラストは私のヨガの先輩ゆみこさんに書いていただきました。

今回に向けて私は何日か前から同じことを祈ってました。

「自分のエゴが大きくなりませんように」

エゴが大きくなると「うまくやろう」という気持ちが出て緊張してしまいます。そしてその時やらなければならない事がこなせなくなってしまいます。

お陰さまで皆さんとても熱心に聞いてくださり、本当にうれしく思いました。

そしてお伝えしながら、今回たくさんの方にヴェーダンタを伝える機会が与えられたことに、感謝の気持ちがわいてきました。集中して楽しくあっという間の2時間でした。

シャバーサナで音響の調子が悪くBGMが流せなかったので、最後に私の大好きなスヴァスティパータハを唱えました。

本当に無心で唱えました。唱えながら、私のこの体を通して古い古いマントラが伝わっていることになんだかとても感動しました。

クラス後にもマントラの声が良かったと声をかけていただきました。

とてもいい時間を過ごすことができて幸せでした。

スタジオオーナーケイコさん、私の尊敬する先輩です!!

ケイコさんのパワーでみなさん凛としていて素敵でした。

ありがとうございました。

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目の前に広がる景色 [思うこと]

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新しいブログは最初何度も書き直しました。ヨガの知識の記事を書いていると、簡単にわかりやすくと思っても話が深く難しくなってしまったからです。

ヴェーダの時代から続くヨガの世界観は、私たちの世界の見方とは違う世界観なので、勉強を始めた頃はややこしくて大変でしたが、少しずつ知識が私の中で輝いてきました。

でもそれは人間としての本来あるべき見方なのかなとも思います。

例えば、生きている事に感謝するとか、この世界の何か大きな力に生かされていることに気づくとか。

もちろんいつもそんな事を感じ続けているわけではないです。日常生活の様々に没頭しますからね。

ただ没頭する時間が減ってきたのは確かです。だから日常生活がキラキラ感じる時も増えました。

リビングの窓からの景色をぼーっとみていると、世界がキラキラして見えることもあります。

目の前の景色がそこにあるということ、それを私が肉体を通して見ていること、そんな感覚が素晴らしく感じられるのもヴェーダンタの勉強のお陰です。本当に有難いとおもいます。

「ヨガ」と「ヨーガ」 [ヨーガについての知識]

私たち「ヨガ」と言いますが、正確には「ヨーガ」なんですよ、という話。

サンスクリット語には母音が13あって、母音には短音と長音があります。
母音「お」の音は長音のみなんです。なので「ヨガ」ではなく、正しくは「ヨーガ」になります。

13個もあるサンスクリット語の母音とは

ア、アー、イ、イー、ル(Rの巻き舌)、ルー(R)、ル(Lの歯の裏)、ウ、ウー、
エー、アウ、オー、アイ、(この4つは複合母音)となります。

というわけで本当は「ヨーガ」と長く伸ばすのです。

これはサンスクリット語を学んではじめて知りました。

サンスクリット語を学んで、ヨーガの用語や聖典の意味を深めることができました。

例えば「神」という言葉一つとっても、人それぞれに神の意味があるように、日本語の言葉で訳されると人それぞれの意味で理解してしまうんですね。

サンスクリット語を学ぶことは、けっこう大切だったりします。


ヴェーダとヴェーダンタ [ヨーガについての知識]

ヴェーダは私たちの五感では知り得ない知識を含む知識体です。

一般的に「ヴェーダ」と言うとき、ヴェーダンタを含んでいる場合と、ヴェーダとヴェーダンタを分けて意味する場合とがあります。

ヴェーダンタとは、ヴェーダのアンタ(結論)という意味です。

ヨーガの知識を勉強している私たちが学ぶヨーガの結論、「アートマー=ブラフマン」の世界観を、シャブダつまり言葉という形で論理的に教えてくれます。それを聖典といいます。

仏陀もこのヴェーダの知識を大切にしたヴェーディックな世界観の時代を生きた人のようです。

なので仏陀もこのヴェーダンタを学んで知っていたと言われています。しかしこの知識を完全に知り尽くすのはどの時代も大変なことのようです。仏陀はヴェーダンタの知識を知ったうえで、瞑想の中で真理を悟ったと言われます。

ヴェーダンタは「たった一つを知ることで、この世界の全てを知った事になる」という知識。つまり「アートマー=フラフマン」の知識を教えます。

この知識が、生きることの混乱や迷いを取り除き、私たちの考えを綺麗にしてくれます。

例えば「欲をなくしましょう。執着を手放しましょう。」なんて言われても、実際はそう簡単にいかないものです。

ヴェーダンタの知識はこの「欲をなくす、執着を手放す」ことが自然に自ら起こってくる、そんな知識です。

しかし、この知識自体を知りつくすことが難しいので、結局のところ「欲をなくす、執着を手放す」ことが難しいのですよね(笑)



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