ヴェーダとは何か? [ヨーガについての知識]
ヨーガという生き方には、基盤に「ヴェーダ」という知識体があります。
そのヴェーダとは、どんなものなのかを簡単にお話します。
「1+1=2」は知識です。知識は特定の人々だけのものではなく、万人に共通するものです。
ヴェーダも知識ですので、インド人のためとか、特定の人のためのものではありません。
知識というと、学校で習うもの、数学、物理学、生物学いろいろあります。
それは新しい考えを生み出しているのではなく、そもそも「ある」ものを明かしているのです。
重力はいつでもありますが、それを明かした人がいて、それが人類の知識となりました。
ですからヴェーダも、そもそもあるものを人類に明かしているのです。
私たちが学校で学ぶものは、全て秩序・法則が明かされたものです。支離滅裂なものは明かせませんから、学問として学べません。
ですから、もちろん科学が明かすものも全て、秩序、法則のあるものです。
同じようにヴェーダが明かすものもすべて秩序・法則があるので、明かされるのです。
しかし科学と少し違うことは、科学で明かせないエリアを含めて明かしているからです。
この世界をよくみてみると、全ての人に個性があるし、生まれながらに病気や不幸があったり、寿命の長短など、いっけん支離滅裂に生まれてきているようですが、ヴェーダはそれも法則なのだと教えます。
私たちの感情気分が揺れ動くののも、ある意味法則なのです。過去の経験をもとに目の前の状況に反応してしまうのです。
原因を突き詰めて感情を止めるわけではなく、習性として沸き起こるのが感情なのだとの理解によって、感情を客観的に扱える人になるのです。
私たちがなぜ、この時代に、この国に、この両親のもとに生まれたのか、科学では明かせません。ヴェーダはそれも法則だと明かします。ですから個々の原因は分からなくても、その法則を知るだけでも自分を受け入れることができるようになってきます。
全ては、この法則が何なのかの理解によって次第に明かされてきます。この世界の全て、地球も空も、自然も植物も動物も、あらゆる物質も、たった一つの意識が現れた姿なのだと。その意識が全てを創造し、自らが材料となって現れた姿なのだと明かされます。
その理解が、自分自身をも明かします。この世界を知ることは、世界に現れている「私」の理解となります。この世界をあるがままに、知的に客観的に理解すること、そして私とは何かを知ること、その知識体がヴェーダなのです。
紀元前、何千年という昔から、たくさんのリシが明かしてきたことを、世界の天才たちが研鑽して、一度たりとも論破されずに残された古い知識体なのです。ですから科学的が存在する前から明かされていた事ですが、今の科学と一切の矛盾がないのです。
ヴェーダのこの知識は、現代の私たちが科学の発達によって逆に見えなくなっているこの世界のあるがままの姿を見せてくれるものです。この知識の世界観のもとに生きる生き方をヨーガです。ヴェーダは私たちの無知を明かす道具なのです。
そのヴェーダとは、どんなものなのかを簡単にお話します。
「1+1=2」は知識です。知識は特定の人々だけのものではなく、万人に共通するものです。
ヴェーダも知識ですので、インド人のためとか、特定の人のためのものではありません。
知識というと、学校で習うもの、数学、物理学、生物学いろいろあります。
それは新しい考えを生み出しているのではなく、そもそも「ある」ものを明かしているのです。
重力はいつでもありますが、それを明かした人がいて、それが人類の知識となりました。
ですからヴェーダも、そもそもあるものを人類に明かしているのです。
私たちが学校で学ぶものは、全て秩序・法則が明かされたものです。支離滅裂なものは明かせませんから、学問として学べません。
ですから、もちろん科学が明かすものも全て、秩序、法則のあるものです。
同じようにヴェーダが明かすものもすべて秩序・法則があるので、明かされるのです。
しかし科学と少し違うことは、科学で明かせないエリアを含めて明かしているからです。
この世界をよくみてみると、全ての人に個性があるし、生まれながらに病気や不幸があったり、寿命の長短など、いっけん支離滅裂に生まれてきているようですが、ヴェーダはそれも法則なのだと教えます。
私たちの感情気分が揺れ動くののも、ある意味法則なのです。過去の経験をもとに目の前の状況に反応してしまうのです。
原因を突き詰めて感情を止めるわけではなく、習性として沸き起こるのが感情なのだとの理解によって、感情を客観的に扱える人になるのです。
私たちがなぜ、この時代に、この国に、この両親のもとに生まれたのか、科学では明かせません。ヴェーダはそれも法則だと明かします。ですから個々の原因は分からなくても、その法則を知るだけでも自分を受け入れることができるようになってきます。
全ては、この法則が何なのかの理解によって次第に明かされてきます。この世界の全て、地球も空も、自然も植物も動物も、あらゆる物質も、たった一つの意識が現れた姿なのだと。その意識が全てを創造し、自らが材料となって現れた姿なのだと明かされます。
その理解が、自分自身をも明かします。この世界を知ることは、世界に現れている「私」の理解となります。この世界をあるがままに、知的に客観的に理解すること、そして私とは何かを知ること、その知識体がヴェーダなのです。
紀元前、何千年という昔から、たくさんのリシが明かしてきたことを、世界の天才たちが研鑽して、一度たりとも論破されずに残された古い知識体なのです。ですから科学的が存在する前から明かされていた事ですが、今の科学と一切の矛盾がないのです。
ヴェーダのこの知識は、現代の私たちが科学の発達によって逆に見えなくなっているこの世界のあるがままの姿を見せてくれるものです。この知識の世界観のもとに生きる生き方をヨーガです。ヴェーダは私たちの無知を明かす道具なのです。
ヨーがとはなにか [ヨーガについての知識]
日本で、世界で、YOGAという言葉が使われていますが、このヨーガとは何なのか?と聞かれると説明が難しいものです。
一般的にヨーガといえば、体を動かす健康体操のイメージですが、もともとは体を動かすことを意味する言葉ではありません。
ヨーガの語源「ユジュ」とは繋がるという意味だから「心と体を繋げることがヨーガですよ」というのはヨガインストラクターがよく言うお約束の言葉ですよね(笑)
正しくは「ユジュ」は繋がると手放すという2つの意味があります。自分自身とこの世界について、あるがままに見ることができるように、過去の見方を手放して物事の本質をみること、真実と繋がるという意味なのです。つまりこの繋がるとは無知が落ちるということです。
この地球上の各地には、大昔から土着の信仰があり、人間は祈りや儀式をしながら生きてきました。
経済の発達がない時代、人間は地球や生き物から食べ物をもらい、その感謝をささげながら生きる世界観をもっていました。
そこには私たちを生かしてくれている存在、それは大地や水や太陽であり、地球を含む全体宇宙であり、何か私たちを生かしてくれている源に対する想いがあります。祈りや儀式はその想いが現れた形で、人間にとっては当たり前に、自然に行われていたのだと思います。
その日々の祈りや儀式、その源に対する考え方、言葉、態度、生き方などを含む「ヴェーダ」という知識体が人から人へ受け渡され、その世界観を今も受け継ぎながら生きている人々が、今もインドの一部で暮らしているのです。
その詳細を知らない現代の私たちは、彼らを勝手に「ヒンドゥー」と呼びますが、実際それは宗教ではありません。宗教のような創始者も組織もないものなのです。
文化や習慣が人から人へ手渡されるように、その「ヴェーダ」を含む生き方も親から子へ、先生から生徒へと途切れることなく手渡されてきたものです。
この知識体「ヴェーダ」が明かす世界観の理解の中で生きながら、自分の成熟を喜びとしながら探求する生き方をヨーガと言います。
そこから瞑想や呼吸法、ヨーガ学派、ヨーガ哲学など多種様々な教えが生まれています。
ではそのヨーガの生き方とは何でしょうか。はっきりとゴールが示されています。
それは、私に何かを付け足して安心や幸せを得ることがゴールなのではなく、(もちろんそれがあってもOKですので手放す必要はないのです)、あるがままの世界観を知的に理解することで、そもそも「私こそが安心で幸せなのだ」というゴールを知る生き方なのです。
実際、私たちはそのゴールに気づいていないだけで、本当は誰でもそのゴールに向かっています。それは自分自身こそが調和であり、自分とこの世界の全てとの調和を知ることなのです。
この探求のゴールを知って、その知識を学びながら日常生活で成熟していく生き方がヨーガなのです。
ヨーガを生きるためには、ある資質が必要です。
その資質とは、ある程度の健康的な体があって、落ち着きのある心が準備されているということ。
ですから、身体を動かすアーサナヨーガや、呼吸法、瞑想法は、すべてヨーガという生き方を始めるための大切な準備となります。
現代の私たちはその体を動かすアーサナヨーガを、YOGA(ヨーガ)と呼んでいるのです。
アーサナヨーガでリラックスして、ほっと自分に落ち着つく体験は、自分の本質に気づく基盤となる大切な体験なのです。
私たちは、誰もが自分自身にリラックスしたいのです。それを目指して生きています。
一般的にヨーガといえば、体を動かす健康体操のイメージですが、もともとは体を動かすことを意味する言葉ではありません。
ヨーガの語源「ユジュ」とは繋がるという意味だから「心と体を繋げることがヨーガですよ」というのはヨガインストラクターがよく言うお約束の言葉ですよね(笑)
正しくは「ユジュ」は繋がると手放すという2つの意味があります。自分自身とこの世界について、あるがままに見ることができるように、過去の見方を手放して物事の本質をみること、真実と繋がるという意味なのです。つまりこの繋がるとは無知が落ちるということです。
この地球上の各地には、大昔から土着の信仰があり、人間は祈りや儀式をしながら生きてきました。
経済の発達がない時代、人間は地球や生き物から食べ物をもらい、その感謝をささげながら生きる世界観をもっていました。
そこには私たちを生かしてくれている存在、それは大地や水や太陽であり、地球を含む全体宇宙であり、何か私たちを生かしてくれている源に対する想いがあります。祈りや儀式はその想いが現れた形で、人間にとっては当たり前に、自然に行われていたのだと思います。
その日々の祈りや儀式、その源に対する考え方、言葉、態度、生き方などを含む「ヴェーダ」という知識体が人から人へ受け渡され、その世界観を今も受け継ぎながら生きている人々が、今もインドの一部で暮らしているのです。
その詳細を知らない現代の私たちは、彼らを勝手に「ヒンドゥー」と呼びますが、実際それは宗教ではありません。宗教のような創始者も組織もないものなのです。
文化や習慣が人から人へ手渡されるように、その「ヴェーダ」を含む生き方も親から子へ、先生から生徒へと途切れることなく手渡されてきたものです。
この知識体「ヴェーダ」が明かす世界観の理解の中で生きながら、自分の成熟を喜びとしながら探求する生き方をヨーガと言います。
そこから瞑想や呼吸法、ヨーガ学派、ヨーガ哲学など多種様々な教えが生まれています。
ではそのヨーガの生き方とは何でしょうか。はっきりとゴールが示されています。
それは、私に何かを付け足して安心や幸せを得ることがゴールなのではなく、(もちろんそれがあってもOKですので手放す必要はないのです)、あるがままの世界観を知的に理解することで、そもそも「私こそが安心で幸せなのだ」というゴールを知る生き方なのです。
実際、私たちはそのゴールに気づいていないだけで、本当は誰でもそのゴールに向かっています。それは自分自身こそが調和であり、自分とこの世界の全てとの調和を知ることなのです。
この探求のゴールを知って、その知識を学びながら日常生活で成熟していく生き方がヨーガなのです。
ヨーガを生きるためには、ある資質が必要です。
その資質とは、ある程度の健康的な体があって、落ち着きのある心が準備されているということ。
ですから、身体を動かすアーサナヨーガや、呼吸法、瞑想法は、すべてヨーガという生き方を始めるための大切な準備となります。
現代の私たちはその体を動かすアーサナヨーガを、YOGA(ヨーガ)と呼んでいるのです。
アーサナヨーガでリラックスして、ほっと自分に落ち着つく体験は、自分の本質に気づく基盤となる大切な体験なのです。
私たちは、誰もが自分自身にリラックスしたいのです。それを目指して生きています。