心の癖を引き受ける [yogaクラス]
Essenntial Practice。今年は終了となり来年1月10日(水)から月2回の開催となります。
ご縁が繋がって、いろんな方との出会いがあり、ゆらりゆらりと続けてきました。
ここに集まる方は、普遍的なヨガを求めていると思います。
世間には○○ヨガといういろんなスタイルがありますが、ここではごくごく普通にアーサナを練習します。
アーサナの形ではなく、全てのアーサナに共通する普遍的なものを探します。
その体の使い方が、日常に役に立ってきます。
誰でも自然で疲れない調和のある体を求めています。
アーサナの練習でそれが得られないのは、その正しさを知らないからだと思います。
「できない」のではなく「知らない」だけ。
それは何十年と続いてきた体の癖に縛られているからです。
そこに気づくことは素晴らしいといつも思います。
私自身も13年間ヨガの練習をして体感してきました。
年を取ってくると、疲れが取れにくいと感じることはあるけれど(笑) 体はどんどんと楽になっていきます。
しかしこれは、体だけでなく心の癖も含まれているのです。
結局のところ、「私」というものは心の癖の影響がとても大きいのです。
ヨガの練習は、自分の心の癖もまるごと引き受けることだと思います。
それはちょっと目をそむけたくなることもあるけれど、、、自分は自分が引き受けるしかない!
そうやって縛られた考えや過去から、ゆっくりと解放されるのだと思います。
このクラスはインストラクターをしている方から、普通の主婦の方まで
ヨガ歴の長い方もそうじゃない方もみんな一緒に練習しています。
クラスの始めはヴェーダンタを含む座学を15分くらいお伝えしています。
来年もまたゆらりゆらりと続きますように・・・
今年もありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします~ヒロミ
~ご案内と日程はこちらです~
ご縁が繋がって、いろんな方との出会いがあり、ゆらりゆらりと続けてきました。
ここに集まる方は、普遍的なヨガを求めていると思います。
世間には○○ヨガといういろんなスタイルがありますが、ここではごくごく普通にアーサナを練習します。
アーサナの形ではなく、全てのアーサナに共通する普遍的なものを探します。
その体の使い方が、日常に役に立ってきます。
誰でも自然で疲れない調和のある体を求めています。
アーサナの練習でそれが得られないのは、その正しさを知らないからだと思います。
「できない」のではなく「知らない」だけ。
それは何十年と続いてきた体の癖に縛られているからです。
そこに気づくことは素晴らしいといつも思います。
私自身も13年間ヨガの練習をして体感してきました。
年を取ってくると、疲れが取れにくいと感じることはあるけれど(笑) 体はどんどんと楽になっていきます。
しかしこれは、体だけでなく心の癖も含まれているのです。
結局のところ、「私」というものは心の癖の影響がとても大きいのです。
ヨガの練習は、自分の心の癖もまるごと引き受けることだと思います。
それはちょっと目をそむけたくなることもあるけれど、、、自分は自分が引き受けるしかない!
そうやって縛られた考えや過去から、ゆっくりと解放されるのだと思います。
このクラスはインストラクターをしている方から、普通の主婦の方まで
ヨガ歴の長い方もそうじゃない方もみんな一緒に練習しています。
クラスの始めはヴェーダンタを含む座学を15分くらいお伝えしています。
来年もまたゆらりゆらりと続きますように・・・
今年もありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします~ヒロミ
~ご案内と日程はこちらです~
幸せを感じるとき [ヴェーダンタ勉強会]
勉強会では今「いーしゅわらやなまは」P.30を読み進めています。
先週みんなでシェアしたこと。
私達が心地よいとか幸せだなと感じることがあります。例えばシャバーサナや、何か趣味に夢中になっているとき、人と楽しみや感動を分かち合っているとき。
その瞬間「私」は何を感じているのでしょうか?
普段、私たちは当たり前に「体が自分」だし、「私ってこんな人、こんな仕事をしている人」と個人をとらえています。
体の内側が自分だし、その向こうは自分ではないと、「個人」という確かな感覚を感じています。
これは当たり前のことです。
でも幸せを感じるときは、その「個人」という感覚が少し薄れています。
シャバーサナの時の心地よさ、人と楽しい時間を過ごしているとき、私の意識は開けています。
もちろん「個人」ではあるけれど、その個人という考えから少し解放される時があります。
そんな時私たちは心地よさや幸せを感じます。
反対に人と張り合っているときや、ケンカしているときは、全く逆です。
「私が」という考えに縛られています。そんな時は心地よくないのです。
これは誰もが持っているあたりまえの感覚ですが、この感覚を大切に生きることがどれほど素晴らしいか最近しみじみ思います。
先週みんなでシェアしたこと。
私達が心地よいとか幸せだなと感じることがあります。例えばシャバーサナや、何か趣味に夢中になっているとき、人と楽しみや感動を分かち合っているとき。
その瞬間「私」は何を感じているのでしょうか?
普段、私たちは当たり前に「体が自分」だし、「私ってこんな人、こんな仕事をしている人」と個人をとらえています。
体の内側が自分だし、その向こうは自分ではないと、「個人」という確かな感覚を感じています。
これは当たり前のことです。
でも幸せを感じるときは、その「個人」という感覚が少し薄れています。
シャバーサナの時の心地よさ、人と楽しい時間を過ごしているとき、私の意識は開けています。
もちろん「個人」ではあるけれど、その個人という考えから少し解放される時があります。
そんな時私たちは心地よさや幸せを感じます。
反対に人と張り合っているときや、ケンカしているときは、全く逆です。
「私が」という考えに縛られています。そんな時は心地よくないのです。
これは誰もが持っているあたりまえの感覚ですが、この感覚を大切に生きることがどれほど素晴らしいか最近しみじみ思います。
恥ずかしながら数年前は、そんな風に心から思えなかったのです。
表で思っていても、内側が穏やかじゃないことへの矛盾が多々ありました。
ヴェーダンタの「私とは何か」の知識は、心からそう思える真実を与えてくれます。 ちょうど「いーしゅわらやなまは」ではその真実に触れ始めたところです。 私が全体なのだということ。まずそれを例え話から感覚的に感じていきます。 それをシェアする時間はとても嬉しいのです。
ヴェーダンタの「私とは何か」の知識は、心からそう思える真実を与えてくれます。 ちょうど「いーしゅわらやなまは」ではその真実に触れ始めたところです。 私が全体なのだということ。まずそれを例え話から感覚的に感じていきます。 それをシェアする時間はとても嬉しいのです。