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「目に見えないけれど確かにある大切なもの」 [日々のいろいろ]

6月にヴェーダンタの座学を開催しようと準備しています。

「ヨガとは何か?」ヴェーダンタのエッセンスを学ぶ5回講座になります。

講座のチラシの中に「目に見えないけれど確かにある大切なもの」という言葉を入れています。

ヴェーダンタを学んでから、本当にこの言葉の意味を温めているからです。

でも目に見えないことを言葉にするのは難しいものですよね。

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人はは長い時間をかけて様々なことを経験しながら生きています。それをもとに自分の見方で世界を見始めます。

大人になると人はだんだんズルくなります(笑) 悪いものを悪いと知っていても、自分に嘘をついてそれをしたりします。

だから時々わが子を見ているときドキっとすることがあります。子供は人が本来持っている純粋な「良い悪い」のセンスを素直に現すからです。大人になった自分が、本当はわかっているのに、ちょっと悪いことをしている事に改めて気づかされます。

大人になると社会の中で計算高くなったり、つい自分の利益や見返りを無意識に計算しているときがあります。そんな時、それに気づき本当に嫌な気持ちになることもあります。

ほとんどの人が自分の富や成功を望んでいます。それを得るために自分の中の価値構造を狂わせてしまい、本当に悪いことをしてしまう人もいます。

お金を得ることはもちろん大切ですし、生きてはいけません。でもそれを得るために見えなくなるもの、失うものが、大人にはあるような気がします。

私たちが生きる上で、本当に大切にしなければならないものって何なのでしょうね。
人の信用、正しさ、優しさ、絆、思いやり、愛・・・?



これらはもちろん大切ですが、ヨガを学ぶ中でその言葉が持つ意味やとらえ方が変わってきます。

私たちは毎日自分の考えの中で生きています。私が経験した過去の記憶を頼りに、自分の見方で世界を見て、何かを手に入れて、何か自分以外のものに満たされようとしています。

でも瞑想やヨガの最後シャバーサナで満たされた感覚はちょっと違います。自分が自分に満足しています。何かを得て満足しているのではなく、本当にあるがままの自分に安心や静寂が現れます。

その静寂の中に「目に見えないけれど確かにある大切なもの」がちょっぴりあるような気がします。

だってヨガのシャバーサナの後は、とっても穏やかで優しい自分になれるからです。



ヨガの知識を学んでいると、自分がモノや世界を見る視点がどんどん大きくなってきます。

自分にとって都合の悪い出来事があっても、それは大きな流れの中で起こるべくして起こったのだとか、そもそも悪いと思うのは自分の勝手な見方であってそれがただ起こっただけなのだと思えたり。

それはこの世界の大きな秩序や調和が、ゆったり自分とつながる感覚。日本人はお陰様でって言い方をしますけれども、それに似ていて、何か私たちの世界を支えている大きな存在があります。

私たちが山や太陽など自然に対して感謝の気持ちをもって拝むのも同じです。何かあるんです、そう「目に見えないけれど確かにある大切なもの」が。



「目み見えないけれど確かにある大切なもの」
それは自分の中にも、この世界にもに、たくさんあふれているような気がします。

ヴェーダンタを勉強するのはそれを言葉で論理的に伝えてくれるからです。

さらに私たちの不安はどこから来ているのか。私たち何を求めて生きているのか。
ヴェーダンタとは、私が知らない私を知る知識。ヨガの勉強はいつも「わたし」と繋がっています。

その「目に見えないけれど確かにある大切なもの」を一番大切にしながら生きる人がヨーギーなのです。



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