人生いろいろ。ヨガの先生もいろいろ。 [ヨーガについての知識]
最近ちょこっと時間があるとき、人の集まりなどに参加しています。
いろんな人やヨガの先生に出会う時間は楽しいものです。
私も含め、みんな一生懸命生きていています。
世の中いろんな職業がありますが、ヨガの先生というお仕事は、生きることとリンクする素晴らしい職業です。
でもその意味がクリアに見えてこないと、ほかの仕事と何ら変わりはありません。
より多くのレッスンを手に入れて、より人気の先生になって、日々頑張って、忙しく充実した自分でないと満足できなくなります。
仕事でもなんでも、それが「成功して幸せ」「充実して幸せ」なのであれば、仕事は苦しみを生む道具になります。
だって、世界の全員が、いわゆる「成功」を手にすることは不可能ですから。成功があるってことは他のだれかが不成功を担ってくれているわけです。
うまくいく人行かない人。それ以前に、恵まれた環境の人、貧しい環境の人。生まれながら病気の人、早く肉体を手放す人(死ぬ人)・・・そもそも人は実に様々な状況なのです。
その「あるがまま」こそがこの世界です。
そして、私たちは「個人」を装っているけれど、「全体」なのです!!
ヨガをする人なら、それが少し見えているはずです。全体の中に生かされている自分に気づいているはずです。それはとても大切なことだと思います。
この客観的視点があるからこそ、自分の人生が計り知れない力に運ばれていると思えたり、人生の悪い状況ですら、時間がたてばいい経験だったと消化できるのです。
でもやっぱり人は、うまくいかないことにイラっとしたり、ひどく落ち込んだりするのです。なぜでしょう。それは「個人」という力強い感覚が、「全体」という真実を見えなくするからです。
その真実を見えなくするものが「無知」というものです。個人とは無知なのです。
たとえその無知を取り除いても、個人のセンスは残りますから、個人の役割をこなしながら「全体」という真実の気づきをもってこの世界を安心して楽しめます。私たちはそこに近づくためにこの世界に存在しているようです。
ヨガのお仕事は、ヨガという生き方を通して、自らもそれに気づいていくのだと思います。
仕事がうまくいって幸せなのではなく、自分自身の本質に目を向けると、仕事のストレスも減って楽になりますね。幸せは自分の外側の状況で叶えるものではないのです。
そして、生徒さんにシャバーサナで「あるがままの自分に満足し安心できている」ことに気づかせてあげるのも、アーサナヨガの大切な要素の一つです。
それは無意識に私を縛りつける「個人」という感覚がちょっと薄れる、それはそれは素敵は体験なのです。無意識ながらに「全体」と繋がって安心しているからです。
だれでも自分自身の安心を求めています。「全体」に気づくと「安心」がふえます。哲学を教えるのではなく、真実を一つの体験(安心)として伝えるのです。
だからまず、ヨガを伝える自分がそこに気づかないとね。自分のために繰り返す日々の練習や瞑想もその道具になります。それはとてもとても大切な時間だと思います。
そしてついに「じゃあ自分っていったい何なんだ?」というところに行き着いたら、いよいよ「ヴェーダンタ」(ヴェーダの知識の結論)に進めるわけです。学びはまだまだ続きます(笑)
いろんな人やヨガの先生に出会う時間は楽しいものです。
私も含め、みんな一生懸命生きていています。
世の中いろんな職業がありますが、ヨガの先生というお仕事は、生きることとリンクする素晴らしい職業です。
でもその意味がクリアに見えてこないと、ほかの仕事と何ら変わりはありません。
より多くのレッスンを手に入れて、より人気の先生になって、日々頑張って、忙しく充実した自分でないと満足できなくなります。
仕事でもなんでも、それが「成功して幸せ」「充実して幸せ」なのであれば、仕事は苦しみを生む道具になります。
だって、世界の全員が、いわゆる「成功」を手にすることは不可能ですから。成功があるってことは他のだれかが不成功を担ってくれているわけです。
うまくいく人行かない人。それ以前に、恵まれた環境の人、貧しい環境の人。生まれながら病気の人、早く肉体を手放す人(死ぬ人)・・・そもそも人は実に様々な状況なのです。
その「あるがまま」こそがこの世界です。
そして、私たちは「個人」を装っているけれど、「全体」なのです!!
ヨガをする人なら、それが少し見えているはずです。全体の中に生かされている自分に気づいているはずです。それはとても大切なことだと思います。
この客観的視点があるからこそ、自分の人生が計り知れない力に運ばれていると思えたり、人生の悪い状況ですら、時間がたてばいい経験だったと消化できるのです。
でもやっぱり人は、うまくいかないことにイラっとしたり、ひどく落ち込んだりするのです。なぜでしょう。それは「個人」という力強い感覚が、「全体」という真実を見えなくするからです。
その真実を見えなくするものが「無知」というものです。個人とは無知なのです。
たとえその無知を取り除いても、個人のセンスは残りますから、個人の役割をこなしながら「全体」という真実の気づきをもってこの世界を安心して楽しめます。私たちはそこに近づくためにこの世界に存在しているようです。
ヨガのお仕事は、ヨガという生き方を通して、自らもそれに気づいていくのだと思います。
仕事がうまくいって幸せなのではなく、自分自身の本質に目を向けると、仕事のストレスも減って楽になりますね。幸せは自分の外側の状況で叶えるものではないのです。
そして、生徒さんにシャバーサナで「あるがままの自分に満足し安心できている」ことに気づかせてあげるのも、アーサナヨガの大切な要素の一つです。
それは無意識に私を縛りつける「個人」という感覚がちょっと薄れる、それはそれは素敵は体験なのです。無意識ながらに「全体」と繋がって安心しているからです。
だれでも自分自身の安心を求めています。「全体」に気づくと「安心」がふえます。哲学を教えるのではなく、真実を一つの体験(安心)として伝えるのです。
だからまず、ヨガを伝える自分がそこに気づかないとね。自分のために繰り返す日々の練習や瞑想もその道具になります。それはとてもとても大切な時間だと思います。
そしてついに「じゃあ自分っていったい何なんだ?」というところに行き着いたら、いよいよ「ヴェーダンタ」(ヴェーダの知識の結論)に進めるわけです。学びはまだまだ続きます(笑)
2018-06-24 21:52
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