思いやり深く演じてみる [ヨーガについての知識]
「まるで思いやり深く演じなさい、歯ぎしりしてでも!(笑)」
私の講座で見た番組TEDでの一コマ、スワミジのお言葉です。
それは「思いやり」についてのお話でした…
私たちには共感する力が与えられているので、相手の気持ちに寄り添うことができます。
でもそれは一時の「思いやり」なのですよ…と。
思いやりをもって人や社会に貢献できるためには、まずは自分が安全で充分なのだ、と感じていなければできません。
そして、さらに自分自身の中に、「ある偉大さの意味」を見つけなければなりません。
自分がお金持ちだとか、権力があるとか、社会に示せる地位ではなくて、自分自身に偉大さの意味、つまり「全体の意味」を見つけなければなりません。
私たちはどんなに悲痛な人生を生きている人でも、悲しみと悲しみの間にとても幸せな瞬間というのがあります。
その幸せというのが、たとえつまらないジョークで笑っている時だとしても、その瞬間は自分自身を受け入れています。同時に自分自身のいる状況も受け入れています。
それは、全てが完全に受け入れられているということです。主体である私、そして客体である様々なものが、一つの本質の中に溶けこんでしまう瞬間があるのです。
どんなに借金があったとしても、解雇や不幸な出来事があっても、その瞬間は幸せでいられます。
それこそが、私たちが望んでいる幸せであり、「全体」の意味なのです。
その幸せの瞬間が、「全体」のリアリティを明かしています。そこに気づくとき、あなたは新しい人生をはじめます。全てが意味深いことになります。もはや自分自身をとがめる理由がありません。
私たちには、限りがあります。体も、能力も、知識も、健康だって。だから楽しい気分も限られてしまいます。思いやりも、全てが限られてゆくでしょう。
思いやりを要求することはできません。あなたが限りの無い人にならない限り。そして誰も限りの無い人にはなれません。あなた自身が限りの無い人か、そうでないかの二つに一つです。
そしてあなたが限りの無いものではないと言える理由も決して見つけられません。あなたが沢山の限界を持っているにも関わらず、あなたが全体なのです。全体の意味そのものがあなたなのです。
あなたが世界と関わるとき、その全体が力強くあらわれる時、それを「愛」というのです。愛は動詞ではありません。名詞です。
そして、それ自身が「思いやり」になります。あなた自身がその感情を呼び起こすなら、それがさらに「与える」や「分かち合う」に形を変えてゆきます。
あなたはそもそも「思いやり」を持っているのです。自分の中にそれを発見するために、それを自分自身から汲み出すために、まずあなたが思いやり深く演じなければなりません。
同情深く演じるのです。どうやって? そこが、あなたが「フリ」をしなければならない所です。
思いやり深く演じなさい!歯ぎしりしてでも(笑) 「フリをしてそれを成す」のです
はじめは相対的な思いやりでも、もしあなたが正しい教えを得るなら、ゆっくりとその思いやりというのが、あなた自身の本質が力強く現れたものだと発見するでしょう。
それが、唯一という意味、全体という意味であり、それがあなたなのです。
以上が、日曜の夜に開催したZOOM講座で、みんなで見たスワミジの講話を、私が小さく簡単にまとめたモノです。上手く伝わるかしら…(汗)
講座ではこれを題材に、私たちに備わっている普遍のダルマ「サーマンニャダルマ」の意味や、「知識」とは何かを深めました。
知識の認識には二つのレベルがあります。対象物としての知識と、「直の知識」です。この「直の知識」が理解できるとき、「全体」の意味がゆっくりと見えてきます。
ゆっくりとゆっくりと…それを学ぶのは、自分自身が人生で背負った荷物を、1つずつ手放して身軽になっていくことだよと言われています。
次回からもスワミ ダヤーナンダジのお話を、私たちの先生チェータナーナンダジが日本語に訳してくださったテキストを使ってお伝えしていきますね。次回は10/11(日)です(^^)/
私の講座で見た番組TEDでの一コマ、スワミジのお言葉です。
それは「思いやり」についてのお話でした…
私たちには共感する力が与えられているので、相手の気持ちに寄り添うことができます。
でもそれは一時の「思いやり」なのですよ…と。
思いやりをもって人や社会に貢献できるためには、まずは自分が安全で充分なのだ、と感じていなければできません。
そして、さらに自分自身の中に、「ある偉大さの意味」を見つけなければなりません。
自分がお金持ちだとか、権力があるとか、社会に示せる地位ではなくて、自分自身に偉大さの意味、つまり「全体の意味」を見つけなければなりません。
私たちはどんなに悲痛な人生を生きている人でも、悲しみと悲しみの間にとても幸せな瞬間というのがあります。
その幸せというのが、たとえつまらないジョークで笑っている時だとしても、その瞬間は自分自身を受け入れています。同時に自分自身のいる状況も受け入れています。
それは、全てが完全に受け入れられているということです。主体である私、そして客体である様々なものが、一つの本質の中に溶けこんでしまう瞬間があるのです。
どんなに借金があったとしても、解雇や不幸な出来事があっても、その瞬間は幸せでいられます。
それこそが、私たちが望んでいる幸せであり、「全体」の意味なのです。
その幸せの瞬間が、「全体」のリアリティを明かしています。そこに気づくとき、あなたは新しい人生をはじめます。全てが意味深いことになります。もはや自分自身をとがめる理由がありません。
私たちには、限りがあります。体も、能力も、知識も、健康だって。だから楽しい気分も限られてしまいます。思いやりも、全てが限られてゆくでしょう。
思いやりを要求することはできません。あなたが限りの無い人にならない限り。そして誰も限りの無い人にはなれません。あなた自身が限りの無い人か、そうでないかの二つに一つです。
そしてあなたが限りの無いものではないと言える理由も決して見つけられません。あなたが沢山の限界を持っているにも関わらず、あなたが全体なのです。全体の意味そのものがあなたなのです。
あなたが世界と関わるとき、その全体が力強くあらわれる時、それを「愛」というのです。愛は動詞ではありません。名詞です。
そして、それ自身が「思いやり」になります。あなた自身がその感情を呼び起こすなら、それがさらに「与える」や「分かち合う」に形を変えてゆきます。
あなたはそもそも「思いやり」を持っているのです。自分の中にそれを発見するために、それを自分自身から汲み出すために、まずあなたが思いやり深く演じなければなりません。
同情深く演じるのです。どうやって? そこが、あなたが「フリ」をしなければならない所です。
思いやり深く演じなさい!歯ぎしりしてでも(笑) 「フリをしてそれを成す」のです
はじめは相対的な思いやりでも、もしあなたが正しい教えを得るなら、ゆっくりとその思いやりというのが、あなた自身の本質が力強く現れたものだと発見するでしょう。
それが、唯一という意味、全体という意味であり、それがあなたなのです。
以上が、日曜の夜に開催したZOOM講座で、みんなで見たスワミジの講話を、私が小さく簡単にまとめたモノです。上手く伝わるかしら…(汗)
講座ではこれを題材に、私たちに備わっている普遍のダルマ「サーマンニャダルマ」の意味や、「知識」とは何かを深めました。
知識の認識には二つのレベルがあります。対象物としての知識と、「直の知識」です。この「直の知識」が理解できるとき、「全体」の意味がゆっくりと見えてきます。
ゆっくりとゆっくりと…それを学ぶのは、自分自身が人生で背負った荷物を、1つずつ手放して身軽になっていくことだよと言われています。
次回からもスワミ ダヤーナンダジのお話を、私たちの先生チェータナーナンダジが日本語に訳してくださったテキストを使ってお伝えしていきますね。次回は10/11(日)です(^^)/
2020-09-29 14:53
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