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ヨガの探究 [思うこと]

4月です。娘の春休みが終わり、やっと新年度がきたなあと感じます。

この4月で、アシュタンガヨガの練習を再開してから、ちょうど1年が過ぎました。
10年前に練習を始めて、ハーフのレッドクラスからマイソールスタイルまで8年ほど日々練習してきました。それを1年以上もお休みしたので、再開した頃は体力もなく身体もコチコチで本当に大変でした。

でも再開してからは、当時3年かかったことを今回は3か月でできたり…その8年の道のりを1年間で早回し再生のように進んできました。ときどき当時の苦労を思い出しながら、改めて体と向き合う1年でした。



アシュタンガヨガの練習の後は、とても穏やかな気持ちになります。90分以上も深い同じ呼吸のリズムで練習するので、それは瞑想の状態にも似ています。同じリズムの呼吸はセロトニンの効果で、科学的にも幸福感も増すと言われていますしね。

なのでその快感を求めて、瞑想にハマる人がいるのもうなずけます。
思考が穏やかになると、何か日常の問題から解放されたり、ちょっとハイになって心地よさが増したり...やや特別な体験かもしれません。



私たちは毎日いろんなことを考え、周りの状況に対応しながら暮らしてます。
たとえ一時的に思考を止めて幸福感が増しても、思考をずっと止めて暮らすことはできません。

「ヨガの哲学」も一時的に思考を穏やかにしてくれます。考えを安定させるために哲学という考えが役に立つときもあるでしょう。

でも、やはりヨガという生き方は、何か特別な体験を求めたり、思考を安定させることではないのです。



人はいったいヨガの練習や瞑想を通して何を求めているんでしょうね。
もちろん人それぞれの楽しみや段階があるんです。ダイエットから心の成熟などいろいろ。

でも練習や瞑想は、まず「思考に飲み込まれていない自分」に気づかせてくれますね。

毎日いろんなことが起こって、いろんな思考や感情が生まれますが、それを変わらずに感じている「自分」という視点が確かにあります。

この「変化しない自分」があるから、過去の様々な経験から人生を学び、過去の試練を自分の成長の経験だったと客観的にとらえることができます。

そこからさらに「私と何か」「世界とは何か」を知っていくのは、シャブダ=言葉で学ぶ必要があります。それは哲学ではなくヴェーダンタという知識を学ぶこと。それが本来のヨガのゴールともいえます。

そこまでヨガを探究するのは、ほんの一握りの人ですが、アーサナや瞑想でも「自分とは何か」その一端を”かすかに”感じることができるとより練習が楽しくなると思います。



私のEssential Practiceでも、深い練習で体の癖を手放すことから、このかすかな「自分とは何か」の探究を楽しめたら良いなと思います。

4月からは、体の中心を引き上げる力「バンダ」に意識を向けていきますね。
毎月2回水曜10:30~。4/11、4/25、5/9、5/23・・・詳しくはこちらです。

ヴェーダンタの勉強会は、月2回木曜14:00~になります。
こちらは新規さんの参加は難しいのですが、今後、新たに講座を開いてグループができたら、また新しいメンバーさんで学びを深めていけると嬉しいです。

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新しい年を迎えて。 [思うこと]

あけましておめでとうございます。
今年は青空がまぶしい東京で新年を迎えました。
私は戌年なので、干支の巡りも4週目に入りました。
年の初めですが、この歳になるともう若い頃のような夢を持たなくなっています。
ただ当たり前に、自分と周りとの関わりや、自分が生かされていることへの感謝、その思いをいつもいつも忘れずにいられますようにと願う…、そうちょいちょい忘れてしまうことがあるからです。
それを「思えている時」と「忘れている時」では、世界が全く違ってみえます。
「思えている時」は、人の優しさや強さ、その人が存在していること自体に感動があります。自然はあるがままで美しすぎるし、山や森がずっと存在していることに感動があるし、四季がめぐり時が流れ世界は全て関わりあって存在している。
そして何より自分がリラックスして自分が自分でいられる時、そう在ることは本当に素晴らしいのです。
でもそれを「忘れている時」もかなりあって(笑)まずは忙しすぎ疲れすぎのとき。内側でちょっとイラッとしたり。目の前のことを淡々とこなしなが、「自分」という感覚に強く囚われる。この世界の全てが見事に関わりあって存在している事実なんて、キレイさっぱり忘れている時もある。
そうこの2つの狭間を、日々行ったり来たりしながら今年も過ごしていくのだろうなぁと思います。
人は多少ブレても、必ず元に戻る力があります。誰でもより良い豊かな自分でいようという強い思いは、いつも必ず心の深いところに存在している。
その大切なものを汲み出すために毎日がある。仕事や子育てアーサナの練習がある。日々の出来事が、自分のブレに気づき、揺るぎない自分の深みに意識を繋いでくれます。
その事に気づける人間ってすごいなぁ~とつくづく思います。だからいつも、そこと繋がって過ごせますように…。
今年もやりたい事は同じ。
日々のヴェーダンタの勉強。
アシュタンガヨガの練習。
お世話になっているスタジオでのレギュラークラス。
Essential Practiceは1/10(水)から
ヴェーダンタ勉強会は 1/18(木)から
去年から始めた英会話もコツコツと楽しみます♡
今年もどうぞよろしくお願いします٩(ˊᗜˋ*)و
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静けさの中で感じること [思うこと]

自分の疲れに気づいて、少し朝の練習マイソールをお休みしてみました。

朝からのんびり窓を開け放ち、鳥のさえずりに耳をかたむける。

窓から心地よい風が舞い込み、部屋という限られた空間と限りのない広大な外の世界とをつないでくれます。

アハンカーラ=自分とはという考え感覚を手離して、ただ外の世界と繋がってみる。

あるがままに存在する、あるがままのこの世界。

それを私という意識が私の肉体を通して見ています。感じています。

その瞬間、私の中にいつもある優しさ、静けさ、無限の可能性と繋がります。

それを「愛」と言ってもいいし、人によっては「神」って思えるかもしれない。

その「愛」が自分の存在であるし、この世界もすべてこの「愛」=存在であると心から思えるとき、それは言葉の世界を超えているので言葉で表現できません。

ただただ、あるがままのこの世界が素晴らしく感動に包まれます。

そんな素晴らしい体験に出会えることこそが私たちの本当の「幸せ」なのかもしれません。


明日から1週間、タットヴァボーダ―の聖典の勉強に入ります。

私たちの言葉で表現できないことを、この地球上で解明されている最古の言葉サンスクリット語からひも解いていきます。

タットヴァボーダーの勉強は今回が3回目です。

「あるがままのこの世界を、いつもあるがままに見られますように・・・」

な~んてリラックスしていると、風で部屋のドアがバタン!としまって

私とはという考えアハンカーラがたくさん現れて、本日の「To Do リスト」が頭をめぐります。

あれしなきゃ、これもやらなきゃ・・・慌ただしい日常に飲み込まれます。

それで久しぶりにブログも更新できたのですが…(笑)

クラスのご案内も作らなきゃ。今日も素敵な一日を~ヒロミ

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学べるという幸せ [思うこと]

早いもので、もう2月でした。1月は色々と考えてしまいました

人生でいろんなことが起こって、ちょっと文句を言いたくなったり、嫌な気持ちになることもありますが(笑) 長い人生を振り返ると、やはりいろんな過去の出来事には意味があって私たちに学びや気づきをもたらしてくれます。

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ヨガの世界観では、私たちの人生はプンニャ(善い行いの結果)とパーパ(悪い行いの結果)を積み重ねて、過去の行いの結果から今の人生があると考えます。

もし過去の行いから人生が全て決まっていると考えると、少し残念な気持ちがしますが、人が全て平等の環境、状況で生まれてこない事を考えると、あながち嘘ではない気もします。

ただ人間として生まれてきた以上、どう生きるか行い(選択)ができるので、過去の行いの結果を中和しながら生き方を切り開いていくことができるそうです。



私たちが生かされているということは、この人生で果たさなければならない役割のようなものがあるのだと思います。

そして生きるためのお金を必死で稼がなければならない時もありますし、子育てや介護に忙しい時期があったり。

新たにやりたい事があっても、今の状況をこなすだけで精一杯という現実が立ちはだかっている時もあります。

いま子供も大きくなって時間的余裕もあるので、やりたいことをやって生きる時間があるのは本当に有難いです。

これはもしかすると勉強をするという流れなのかなと、うすうす感じてました。

ヨガの勉強でバガヴァットギーターの理解を深めるために、サンスクリット語の文法を学ぶことはとても大切です。

私は恥ずかしいことに、過去に2回もサンスクリット語の勉強を挫折していました。

その時はまだ子育で時間的な余裕もなかったのですが、今はそんな障害が全くない!「3度目の正直」というわけで再々チャレンジをしようと決めました。



4月からヴェーダンタの勉強をさらに深める2年コースに参加します。

人は考えが知らないことを目では見ません。医者は医学の知識があるので、その外見的な症状から病気を見極めます。

目の前で人が倒れてしまうとオロオロしてしまいますが、医学の知識があれば少しリラックスして対応できるのだと。

山で遭難しても山の知識が豊富なほどリラックスが生まれるとも習いました。遭難した事ないので実際はわかりませんが(笑)

人生においても同じで、知っている以上のことを、知ったり見たりはできないようです。経験すること学ぶことは、その人生を豊かにしリラックスを与えてれるのだそうです。

言葉を学ぶというのは、その文化や生き方を学ぶことができますが、ヨガの知識はこの世界の哲学や宗教の源の知識をまなびます。

私とは何か、この世界と何か。私たちは今の時代の人間としての価値観の中でいきているけれども、人間だって自然や動物、植物と同じで自由で満たされた存在なのだと思います。

それを知るのが「パラマ・プルシャ・アルタ」人の求めている究極のゴール。

地球上に存在していた古いヨガの知識が、混沌としたこの現代にアーサナヨガとして広く受け入れられているのも、それを求めているから。

リラックスして生きるための知識を求めているからだと思います。

去年の12月、ヨガはユネスコ無形文化遺産となりました。時間がある今、しっかり学んでおこうと思います。


ヨガのゴールとは [思うこと]

ヨガのゴールが見えないと、アーサナも瞑想も単なるエクササイズになってしまいます。

でもヨガのゴールって何でしょう。そもそもゴールなんてあるのかしら?

10年以上ヨガをしてきて、ヴェーダンタを勉強するまではゴールなんで見えてませんでした。



私たちがヨガを続ける理由は簡単です。「気づき」があるから。

アーサナや瞑想で心と体が満たされてクリアになる感じだったり、生活や食べるもの、働き方や人との関わりに自然と良い変化が現れることに気づくからです。

でも「気づく」ことは単なる人の成熟です。

これは本当の意味でヨーギー(ヨガを生きる人)ではない。

ヨーギーはゴールが見えています。モークシャ(自由)というゴール。

ヨガをすることで感じられる「気づき」っていったい何なのかを知識という「言葉」で知ることです。

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私たちが人生で求めているのは何なのか?

お金や仕事、結婚や家庭を持つことで、必ず幸せになれるわけではない。

いやいやでも、生きる上でお金や仕事はとても大切。

ヨガを極めるからと言って物質的な豊かさを手離す必要はない。

でもヨガの知識によって「きれいな考え」「きれいな見方」ができて価値構造が整うことで、自然と生き方が変化して、そんなにお金がなくても幸せなんだと気づくかもしれません。

より多くより豊かに…という妄想に包まれたこの世界の真実に気づくかもしれません。

私の体って何なのか、私の考えや感情って何なのかということに深く気づくかもしれません。

ヨガの知識はこの「世界って何なのか」「私って何なのか」を知っていきます。



この知識は哲学や宗教ではなく、単なる真実を知ること。

大昔のインドの地方の人は、その知識を育んで発展した文明を繰り広げていました。

その教えを知ろうと人々がはるか遠くから旅をしながら集まり、聖典を持ち帰り旅を続けるうちに様々に形をかえながら伝わり、仏教などになって広く人々に受け入れられました。

しかし哲学や宗教は人の考えが加わったもので、真実が正しく伝わっていません。

このヴェーダンタは紀元前から伝わる教えの方法論と伝統を、現代まで大切に守ってきました。

ざっくり簡単に言うと、ヨガのゴールってこの知識を知ることです。

怖いくらい、かなりざっくりはお話です(笑)


私はヨガのアーサナクラスの他に、ヴェーダンタを勉強しながらお伝えすることもしています。

次回の一日講座はこちらです。
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判断を手放す [思うこと]

4日間ほど東京にいたので、久しぶりに生徒として一般のヨガクラスを受けてきました。

以前はクラスを受講すると、同業者として頭の中が思考でいっぱいになっていました。

どうしてもその先生に対して無意識に「良い・悪い」の判断をしてしまうのです。

今はそれがないので、どの先生のクラスも心から楽しむことができました。


私もよく使いますが、ヨガクラスでは先生が「判断を手放して」と言います。

アーサナが「できない」とか「体が硬いな」とか、自分自身に「良い・悪い」の判断をしてしまうことがあります。

「できない」も「硬い」も何も問題ないのですが、それに残念な気持ちがのっかてくると「悪い」と無意識に判断していることになります。

単にできないことを客観的に楽しめれば良いのですけれども。


ヨガの時間に限らず、日常生活で自分に意識的になってみると

自分や他人、お天気や環境、目の前に起こることなどたくさん判断しています。

その思考のクセは簡単に手放せるものではありません。

まずは無意識に起こる「自分の思考」に気づいていくことも大切です。


ヨガのヴェーダの世界観では、この世界は全てダルマ(宇宙の秩序・法則)なのだと言います。

この世界では人やモノ、動植物や環境すべてが関わり合ってダルマのもとに存在しています。

地球一つみても、まるで地球が一つの生命体のように、全てが関わり合って生きているのだと。

そして人が生まれてきたのも、前世を含む過去の行いの結果が実ったものだといいます。

そんな視点で世界を見ていくと、この世界で良い悪いの判断なんて意味があるのかと思えることさえあります。

とはいえ現実は、物事や目の前のわが子にイラッとすることもあるわけですけれども。

けれどもヨガの世界観、ヴェーダンタを勉強していくと、この世界は何も変わっていないのに、自分の見方が変わっていることに気づきます。それが勉強の楽しさでもあります。

見方が変わることで、自然と「判断を手放す」ことができて、生きることが楽になるのだと思います。





自己受容とは [思うこと]

自己受容とは、一般的には「あるがままの自分を受け入れる」という意味になるでしょうか。

先日、友人からのメールに「今まで人を羨ましく思っていて、そう思う自分が嫌だったけれども、今はそんな自分を解放していくことが大事なんだと思う」とありました。

人を羨ましく思い、自分を嫌になるということは過去にたくさん経験してるので、メールを読んだときちょっとウルッときました。

「ヨガとは自己受容です」と学んだ時、最初は文字通りどんな自分をも受け入れることなのだと思いました。

ヴェーダンタを学んで、その意味は「正しく自分と世界を知ること」なのだと思いました。



私たちの考えや感情は100%「過去の経験」をもとに「今」を見ています。

過去の経験の積み重ねから、怖さや怒り嫉妬などの嫌な感情が出てきて、その状況にプログラムのように反応しているのです。

そして人を羨ましく思うというのは、自己意識が高いということ。

動物は人と自分を比べることができません。比べるのは人間だけです。

でもその高い自己意識があるので、「どう生きるか」を選ぶことができます。



そもそもヴェーダンタでは私たち人間は、自然の力、大きな宇宙の意識の現れだといいます。

過去の経験から他人と比べ、様々な感情が起こるのも自然なこと、プログラムなのです。

この視点を持つと、自分に対して良い悪いの判断を少し手放すことができました。

嫌な気持ちはさっさと手放し、今どう行動するのかを選べば良いだけのような気がします。

このヴェーディックな世界観を知っていくことが、「自己受容」なんです。


目の前に広がる景色 [思うこと]

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新しいブログは最初何度も書き直しました。ヨガの知識の記事を書いていると、簡単にわかりやすくと思っても話が深く難しくなってしまったからです。

ヴェーダの時代から続くヨガの世界観は、私たちの世界の見方とは違う世界観なので、勉強を始めた頃はややこしくて大変でしたが、少しずつ知識が私の中で輝いてきました。

でもそれは人間としての本来あるべき見方なのかなとも思います。

例えば、生きている事に感謝するとか、この世界の何か大きな力に生かされていることに気づくとか。

もちろんいつもそんな事を感じ続けているわけではないです。日常生活の様々に没頭しますからね。

ただ没頭する時間が減ってきたのは確かです。だから日常生活がキラキラ感じる時も増えました。

リビングの窓からの景色をぼーっとみていると、世界がキラキラして見えることもあります。

目の前の景色がそこにあるということ、それを私が肉体を通して見ていること、そんな感覚が素晴らしく感じられるのもヴェーダンタの勉強のお陰です。本当に有難いとおもいます。

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